「日本の占領1942-45」の記述を見るかぎり、華僑の犠牲者数が5万人とか10万人といった数字は考えられない。日本側の資料でも例えば大西覚氏の著書「秘録昭南粛清事件」によれば。粛清に立ち会った各憲兵分隊は、処分人員をかなり水増しして報告したという。大西氏の分隊では140-150名でトラック2台に分乗させた記憶があるという。また、、水野少佐の裁判記録でも177名と記されている。このような数字からも華僑側の数字は多すぎる。

この粛清による虐殺について、戦後すぐの連合軍法廷で裁かれ河村参郎中将(警備司令官)大石正幸大佐(野戦憲兵隊長)二人に死刑、西村琢磨中将(近衛師団長)横田昌隆大佐(野戦憲兵隊隊長〕城朝竜中佐〔野戦憲兵隊指揮官)大西覚少佐〔野戦憲兵隊指揮官)久松晴治大尉〔野戦憲兵隊指揮官)の5人に終身刑が言い渡された。しかし、当時シンガポールは英国の自治領で、昭和26年の対日平和条約で英国が請求権を放棄したため華僑の間で補償の問題は表面化してこなかった。

この問題が再び表面化してきたのは、昭和37年2月、東海岸の埋め立て工事中に大量の遺骨が発見されたからだ。日本側は法律論をたてに、この問題は平和条約で解決ずみだと華僑側の団体「中華総商会」の要求を拒否した。

しかし「中華総商会」の要求は強硬で”血償”問題として取り上げ、5万人から10万人の集会でゆさぶりをかけてきた。結局、日本側は旧宗主国、英国の仲介で道義的な立場から検討を約した。しかし、補償の額をめぐって交渉は難航、昭和41年10月、双方は無償供与と円借款の計5千万マレーシア・ドルで一致をみた。