虐殺現場とされるパリットスロンは、パクりとヨンベンとの中間にある村落で、村の中を流れるスロン川に全長20㍍ほどのコンクリートの橋が架かっている。この橋を海岸から上陸した近歩4の吉田大隊が背後から占拠したためパクリから逃亡中の敵は退路をたたれてしまった。敵は降伏するか、窮鼠猫を噛む式の抵抗しかなかった。21日から次第に敵を追い詰めていった本隊は22日正午ごろ吉田隊とついに握手をした。

ハックニー中尉が収容されていた小屋は、この橋の近くにあった。近歩5の岩畔豪雄連隊長は、その著「シンガポール総攻撃」の中でパリットスロンの壊滅戦に触れ”生き残った豪州兵パンジャブ兵約300名が、わが連隊の捕虜となっていた。ゴム林の中やパリットスロンの村落の中には少なくとも200-300の遺棄死体が転がり、スロン川の水面には赤靴の豪州兵や黒靴のインド兵の屍が数えきれぬほど浮いていた”と書いている。この記述から判ることは、パリットスロン壊滅戦のあと現場には数百の遺棄死体が残されていた一方、300人もの捕虜がいたことだ。それでは、なぜ苦力小屋の捕虜だけが軍の高官の命令で殺されたのかー。以下「将軍はなぜ殺されたか」豪州戦犯裁判 西村琢磨中将の悲劇」 イワン・ウォード著に従って当時の模様をみてみよう。