当時連合軍の一員としてパクり戦線で戦っていたオーストラリア第29大隊のB・ハックニー中尉の告発資料によると、惨殺事件のあらましはこうである。ハックニー中尉はただ一人、この事件の生存者といわれている。日本側が勝利した22日、ムアルーパリットスロンを結ぶ道路脇の苦力地区の二つの小屋の前を近衛師団の自動車、野砲、戦車が長時間にわたって通過していった。この二つの小屋は、連合軍が野戦病院として使い、中にはオーストラリア軍兵士110人、35人から45人のインド兵が収容され救出を待っていた。そこへ師団の車列のあとから前後を厳重に警備された車が到着、中ら非常に高い階級の軍人と参謀が現れ、その場にいた部隊から敬禮をもって迎えられた。

この軍人は小屋の扉から中で苦しんでいる捕虜を視察した。この軍人は車に乗り込む前に外にいた部下に命令したようだ。そのあと捕虜はロープとワイヤーで小グループごとに後手に縛られ、近くの広場に連れていかれた。そこで日本兵兵ちたは捕虜に向かって一斉に射撃し、さらに石油缶で火をつけ殺した。以上ガ事件の概略だが、告発者のハックニー中尉は幸いにも放火される前に逃げ出すことができたのだちう。彼が小屋の中から目撃した日本軍の高官は”背の低いずんぐりした”男で、制服制帽姿の写真をみれば確認 できると証言した。