“戦場は殺すか殺されるかの舞台である。殺さなければ殺される。人を殺すことをためらっていては戦争は成り立たない“(「戦場の僧」 窪沢泰忍著 近代文藝社)-昭和17年1月18日から21日まで4日間にわたってパクり、パリットスロン(ジョホール・バル州)の激戦に近衛師団の機関銃隊曹長として従軍した窪沢氏は、その著「戦場の僧」の中でこう記している。窪沢氏はもともと新潟県寺泊町の聖徳寺の住職であった。前述したとおり、この地域の戦闘は、まさに山下司令官が後年述懐しているように”最も残忍な”戦闘であった。

結果的には勝利したものの近衛師団も尖兵部隊の五反田戦車中隊が対戦車砲の集中砲火を浴びて全滅に近い打撃を受け,大柿第3大隊長を始め226名の戦死者をだした。“暗くなった戦場での戦死傷者の処理は、とりわけ悲しいものである。遺族に遺骨を送り届けるためといいながら、戦友の指を切り、手首を切ることはつらかった。遺体を埋める穴は念をいれて掘った。涙を流しながら土をかけ合掌した”と第18師団司令部の荒井三男氏が「シンガポール戦記」で述懐しているが、戦場の兵士の気持ちをよく伝えている。このような厳しい雰囲気の中でパリットスロン惨殺事件は起きた。