シンガポール渡河作戦に当たって近衛師団は、またしても第二線的兵団に甘んじなくてはならなかった。師団傘下には近歩4、近歩5の二連隊の兵力しかなく、それもバクりその他の戦闘で犠牲が出ている。第5師団、第18師団が互いに”一番乗り”を競っているのに対し、近衛師団はウビン島上陸という陽道作戦の一翼を担ったもののシンガポール渡河は、両師団より一日後の9日午後11時45分と後塵をはいすることになった。そしてさらに悪い事には渡河作戦で近歩4が海面の重油炎上で全滅したという誤報にふりまわされ、第25軍司令部との関係をいっそう悪化させてしまった。

山下司令官は、その日記の中で「近衛師団に水道の横断を命ず。さらに師団長は詳細なる命令を求む。彼より水面に油燃え上がりおるため、師団は横断を躊躇しある旨の連絡あり。彼はなお攻撃の先頭に立ち阿多業利子ため、動転ある如し。任務を遂行すべしと命ず」と記している。さらに戦局説明に来た近衛師団参謀に対して「帰って師団長にいえ。近衛師団は、この戦闘で勝手にやれ}ともいったともいう。たしかに海面重油炎上の誤報に振り回された失態はあったが、上陸後の近衛師団の奮闘は目覚しく11日にはマンダイ高地を占領,セレター軍港近くの敵を掃蕩、そのあと水源地作戦に転戦、戦争を勝利にもたらした。