この応酬の際「全面降伏」の解釈をめぐって山下司令官が使用した”イエスかノー”という文言、一部に山下司令官が英国側を威圧したように伝えられた。しかし、関係者の話を総合すると決してそのようなことではなかった。会談は午後10時ごろ終わった。双方に莫大な犠牲者を出したシンガポール攻略戦も日本軍の上陸から5日間で終り戦火は収まった。英国軍の全面降伏の報は、たちまち前線の兵士たちにも伝わり、各地で”萬歳、萬歳”の声がこだました。16日朝には勝利を示す大日章旗がが気象観測気球に吊り下げられ、シンガポールの空にはためいた。

第25軍の発表によると、このシンガポール攻略戦の戦果と損害は次の通りであった。

戦果 各種野砲山砲 約300門 高射砲(機関砲を含む)100門 要塞砲 54門 速射砲 108門  重機関銃 2500挺以上 対戦車砲 65挺 自動小銃 800艇 小銃 約60、000艇 機関車・貨車 約1,000両 自動車 約1100,000両 戦車/装甲車 200台 飛行機 10機 その他弾薬・食糧なd多数 捕虜 約10,000人(うち白人60,000人)

損害 日本軍の損害 戦死者1,713人 戦傷者 3、387人

赫赫たる戦果であったが、一方、日本側の犠牲も大きかった。マレー半島上陸以来の戦死者総計が3,507人なのに対しわずか5日間のシンガポール作戦で、その半分に近かい人命が犠牲になっている。いかに戦闘が熾烈だったかを物語るものだ。

後年、この作戦の参謀だった国武輝人氏(少佐)は「勝利はどちらが手をあげてもおかしくない、ぎりぎりの間一髪の綱渡りの中でのものである」と述べている。池谷半次郎高級参謀もシンガポール作戦を回顧して「もっとも苦しかったのは2月13,14日頃だった。英国軍は存分に弾薬を使ってさかんに撃ってくるが、わが軍は弾薬もなくなりいよいよ銃剣に頼る以外に方法なしといったいった感が深かった」と書いている。では何故英国は降伏したのであろうか。パーシバル英国軍司令官はそれについて「2月14日の空襲と砲撃によってジョホール・バルからの送水管と水道管が壊され、市内へへの給水がむずかしくなった。15日になると一昼夜しか給水できなくなった」と語り降伏は軍事面からではなく住民を抱えこんだ戦争というものがどのようなものであるかを物語っている。