いんどねしあコタコタ (2) ナゴヤ

日本名をもつ唯一の町


バタム島(リアウ州)の中心に「Nagoya」という町がある。なぜ「ナゴヤ」なのかー。いくつかの説がある。

戦争中、ここに駐屯していた名古屋出身の日本兵が郷愁からつけたという説。いや、そうではない。

1970年代、この島で開発プロジェクトに従事していた日本の商社マンが住民に頼まれ命名した、という説などなど。

が、筆者が調べた限りでは、戦後バタム島の大成建設の現場にいた中島パンジャン説に軍配があがる。

中島パンジャン氏は戦前のジャワ生まれ、戦争中は義勇軍(PETA)の通訳をしていた。

このとき背丈が1m80cmと長身なのを当時の日本人が誤ってパンジャンとあだ名をつけた。パンジャンは”長い”という意味のインドネシア語。それがそのまま戦後も間違って伝えられている。

中島さんから直接きいたところによると「Nagoya」地区には、開発以前には特に名前はなかった。

そこで、住民の代表が中島さんに、どこか日本の地名をつけてくれと頼んできた。そこで中島さんが故郷の町の名前を提案したが、”もっと大きい町がよい”ということから「Nagoya」に決まったのだという。

バンカ島と今は三つの橋で結ばれているレンパン、ガラン島は戦後、復員

までの間、関係者が飢餓と病魔で苦しんだ場所。歌手の藤山一郎もジャワからここへ送られ、慰問のため「ブンガワンソロ」を歌った。

レンパン島には当時物資の陸揚げに使った「三船」港がいまでも”Mifune"として残っている。「南千武」には、この島でなくなった方々の慰霊碑があるが、関係者の高齢化で慰霊に訪れる人も少なくなっている。



(この原稿は〔財〕日本インドネシア協会「月刊インドネシア」に連載の予定)