蝮ヶ池八幡宮…千種区向陽1丁目3-32 | 「洋ちゃん」のひとりごと

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先日(5日)、

早朝散歩で

千種区向陽1丁目3-32にあります

名刹 蝮ヶ池八幡宮を訪ねデジカメ。

 

↓場所

蝮ヶ池八幡宮について

↓千種区史跡散策路より引用

江戸時代頃から、この付近一帯の農民の氏神として信仰されていた。

蝮ヶ池と呼ばれる灌漑用の池に近いことからこの名がついた。

 

↓千種区史より

祭神は応神天皇である。

江戸時代、この附近一帯の名古屋新田として、信仰が極めて厚かった。

戦災で社殿が焼失したが、昭和26年に再建された。

蝮ヶ池のそばに建立されたのでその名がつけられた。

 

↓ネットより引用

所在地 名古屋市千種区向陽1丁目3-32 地図
創建年 1624年-1643年頃(江戸時代前期)
旧社格・等級等 指定村社・八等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
その他 例祭 10月14日

🔷江戸時代初期、この地の開墾を指導支配していた兼松源蔵が、京都の石清水八幡宮に分霊を勧請。

自宅から近い西八幡社に祀ったのが始まりとされている。
開墾してできた池は、夏になると蝮(まむし)が群がったとい、そこから蝮ヶ池と名づけられたされる。
 

『愛知縣神社名鑑』に記載。
社殿に寛永年中(1624-1643)名古屋護新田の大庄屋
兼松源蔵が神託により山城国男山八幡宮に参籠分霊を戴き当地の守護神として屋敷内に創祀したが日夜神威灼熱なるにより里人の願いを入れて現在の社地に社殿を造営御遷座し村中の総鎮守と仰ぎ祀る。

明治5年10月、村社に列格する。

明治40年10月26日、供進指定となる。

日毎に社頭隆昌せしが昭和20年6月26日の空襲により社殿を焼失する。

昭和34年9月の台風にも被災あれど漸次復旧した。

(付記)

兼松源蔵は名古屋新田の開発に尽力した尾張藩士で大庄屋。

 

👅デジカメ

↓西向き

↓連理の木…参道右にあり

 

↓二の鳥居…これより先、急階段

↓急階段のもとに遙拝所があり

 

↓手水舎

 

↓村社 八幡社と彫られた石碑

↓末社

 

↓拝殿

↓由緒

↓神楽殿

 

↓参道を見下ろす…急坂

↓東向きの鳥居に向かう登り階段

↓東向きの鳥居                                                ↓地下鉄池下駅方向へ…急坂

 

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👅追記…掲示板に貼付

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👅追記…栞をスキャン

 

👅追記…神社の所在地「向陽」の町名の由来

当地にあった「向陽館」の名にちなんでつけられた。

向陽館について…ネットより引用

名古屋の老舗寿司屋「東鮓(あずまずし)本店」によって昭和5年(1930)、現在の名古屋市千種区向陽町に建てられた名古屋を代表する広大な高級料亭です。
敷地が三千坪、向陽町の約6割が向陽館だったと言われたり、もともと蝮ヶ池上という地名だった場所が、向陽館が作られた事によって向陽町と改められたという逸話も残されています。
昭和18(1943)年に戦争の激化による企業整備令を受けて、強制的に徴用され閉鎖されました。
陸軍の司令部として使われた結果、アメリカ軍の空襲目標となり焼失しました。