信長塀:佐久間灯籠について…熱田神宮 | 「洋ちゃん」のひとりごと

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信長塀について…熱田神宮

永禄3年(1560年)織田信長は、尾張に侵入した駿河の今川義元軍を迎え撃つため、

未明に清須城を出陣いた。

信長は集結した軍勢を率い、まずは熱田神宮で必勝祈願をする。

熱田の東加藤家・西加藤家の援助を得て、熱田を出るときには3000人の兵力を結集したという。

信長は桶狭間の戦いに勝利をおさめ、戦勝のお礼として熱田神宮に築地塀を築造・奉納した。

この一部が『信長塀』として現存している。

🔶信長塀は元亀2年(1571年)に信長が寄進したとされている。

土と石灰を油で練り固め瓦を厚く積み重ねて、上部を桟瓦で葺いた優雅で重厚な築地塀。

瓦は神宮の敷地内で焼かれたといわれている。

兵庫県の西宮神社大練塀、

 京都市の三十三間堂太閤塀

 とともに日本三土土塀の一つにあげられている。

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佐久間灯籠について…熱田神宮

この灯籠の由来は、

寛永7年(1630年)に御器所西城の城主佐久間盛次の四男勝之が、海上で台風に遭った際に、

熱田神宮の守護を祈り難を免れたお礼として寄進したものという。

高さ8.2メートル。

形も六角形で雄大な相をもち、江戸時代から日本三大灯籠の一つとして知られている。

三大灯籠は、

 いずれも佐久間勝之が奉納している。

一つは江戸の上の東照宮にあるお化け灯籠(高さ6.8メートル)

もう一つは京都南禅寺三門の右前にある佐久間灯籠(高さ6.メートル)である。

 

(特記)

佐久間勝之については

身近な戦国領主 佐久間氏について