先日(20日)
名古屋城内にある「茶席」は
一般公開されていないですが、
パンフレットより「特別公開」がありと知り訪ねデジカメ。
茶席・庭園を、
静寂を感じ、ゆっくり楽しみながら散策してきました。
庭内敷地、約2,000平方メートルの中に4つの茶席(5つの部屋)が適度の間隔をへだてて
配置されており、各茶席と庭内へ入る門とは露地で結ばれています。
・書院
・猿面望獄茶席(さるめんぼうがくちゃせき)
・織部堂(おりべどう)
↓茶席:入り口
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書院(昭和24年(1949年)完成)
十畳の書院を始め、八畳の次の間・五畳座敷などを含んだこの一棟はすべて故森川勘一郎氏の
意匠で造営されました。
名古屋城内にあった加藤清正手植えの老松が惜しくも枯れたため、その材を書院の台面
・付書院(つけしょいん)・袋棚(ふくろだな)などに使用しています。
書院次の間の前廊下の長桁(ながけた)は、1928年(昭和3)、昭和天皇が即位の礼のため
名古屋城(離宮)に立ち寄った際、旗竿として使用されたものです。
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猿面茶席(戦災焼失・昭和24年(1949年)復元)
名古屋城築城の際、古田織部(1544-1615年)の意匠により、清須城の古材を利用して
建築されたと伝わる、
数奇屋四畳台目(すきやよじょうだいめ)の名席。
茶席の床柱には2つの節目が並んでいますが、織田信長が清須城にいた頃、この節目が
「猿の顔」に見えたため、木下藤吉郎(豊臣秀吉)に「汝の面の如し」といって戯れたと
伝えられ、いつしか「猿面」と呼ばれるようになりました。
1620年(元和6)、本丸から二之丸に移築され、そこで明治維新を迎えます。
その後、1929年(昭和4)に鶴舞公園に移築され、1937年(昭和12)に国宝に指定されますが、
残念ながら戦災で焼失。
幸いにも焼失前に詳細に調査した図面が残されていたため、この図面をもとに昭和24年(1949)、
名古屋城内に復元されました。
望獄茶席(昭和24年(1949年)完成)
藤村庸軒(ふじむらようけん・1613-1699年)が京都市の金戒光明寺西翁院(こんかいこうみょうじさいおういん)
に造営した「澱看(よどみ)の席」の写し。
この位置からは御嶽(おんたけ)の山々を望むことができるため、「望嶽庵」と命名されました。
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又穏茶席(昭和24年(1949年)移築)
千利休の孫・千宗旦(せんのそうたん・1578-1658年)が造営した「又隠(ゆういん)の席」の写し。
安永年間(1772-1780年)に建てられたものを城内に移築しました。
名の由来は、宗旦がまず「今日庵(こんにちあん)」を造営して隠居し、さらに四畳半の新席を
造営して再びそこに隠居したことから「又隠(ゆういん)」と命名したとされています。
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織部堂(昭和30年(1955年)完成)
織部焼の創始者であり、信長・秀吉・家康に仕えた茶人大名・古田織部(1544-1615年)。
織部は名古屋城の茶席造営にゆかりある人物で、その功績を顕彰するために1955年(昭和30)に建立された。
👇庭園内を散策
↓入口
↓通路
↓書院・猿面望獄茶席
↓
↓又穏茶席
↓織部堂
(付記)
(日めくりより)
今日(25日)の言葉
『名人は人に問う』
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真の名人は、うぬぼれることなく人の教えや意見を謙虚に聞くという教え。
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本当に優れた人は、自惚れること無く、耳を傾ける。
(220,210歩)