先日、
永弘院(千種区上野一丁目)の境内にあります
「上野城址」を再度訪ねる。
(注)以前に訪ねたときには、
上野城址の石碑は、
永弘院の山門を入り右側の場所にありましたが、
山門を入り左側の場所に設置(移転)してありました。
↓場所…千種区上野1-4-18
永弘院は
臨済宗妙心寺派で、
天文7(1538)年、上野城主下方貞清が建立したお寺です。
上野城について、
・築城年は、
不確かですが室町時代後期、永正年間(1504~21)に信濃国より
この地へ移ってきた下方貞経・貞清親子が建立したお城です。
・貞経は、岩倉城を拠点とする『伊勢守系』の織田信安に仕えていたが、
対立していた『大和守』系の織田信秀に攻められ続け天文7年(1538)
から信秀に仕えました。
(※貞経、貞清は、織田信秀・信長父子二代に仕えた)
・その後、病死した貞経の跡を継いだ貞清は武勇の誉れ高く賞賛される。
(病死した貞経の跡を継いだ貞清は、若干15歳)
(信秀亡き後は信長に仕え、萱津合戦や姉川の戦いなどで活躍、
今川軍と戦い「小豆坂の戦い」では「小豆坂七本槍」のひとりに称された)
・貞清は慶長11年(1606年)7月に清洲城で没し、自領だった上野村の
永弘院に葬られる。
・廃城年代は明らかでない。
城址の現況
現在の千種区上野小学校(千種区上野二丁目)辺りが城跡とされている。
石碑は下方氏の菩提寺である永弘院に移っており、
お城跡を偲ぶ遺構はなにもなし。
↓名古屋の史跡と文化財よりスキャン
デジカメ…永弘院の境内
(追記)
上野城址について