私「洋ちゃん」、中川区内にある
名古屋市教育委員会設置の名勝標札巡りをしています…№6
その一環で、
先日、
「梶常吉宅跡」の名勝標札をデジカメ。
設置場所 中川区服部2丁目902
※【梶常吉】幕末・明治前期の七宝工。
名古屋藩士の子。
オランダ七宝の技術を学び、尾張七宝を創始。(1803〜1883)
↓名古屋市教育委員会設置の名勝標札
梶常吉について
↓中川区人物事典より引用
梶常吉は、
享和3(1803)年5月、尾張藩士梶市右衙門の次男として誕生しました。
尾張国海東郡服部村(現在の中川区富田町)に移住し、鍍金業(金属焼付)を営んでいたある日、物置で見つけた書物に書かれた『七宝焼』のことで、頭の中はいっぱいになりました。
(『七宝焼―さんご・るり・しゃこ・めのう・こはく・たいまい・すいしょう。この七つのほう石をもって製造す』七色にかがやく焼き物とは、どんなものだろう。焼いてみたいなあ。)
18歳の常吉は、見たことのない七宝焼をあれこれ想像していました。
小さい頃から人一倍好奇心が強く、研究熱心であった常吉の心は、七宝焼のとりこになってしまいました。
ある日、常吉は一軒の骨董商(松岡屋)の店先で一枚の皿が目に入りました。
この皿は江戸末期、オランダ船で運ばれたとされる有線七宝の皿で、骨董商から買いました。
最初の頃は表面を眺めていましたが、何を思ったのか、そばにあった金づちで、命よりも大切な七宝の皿を砕いてしまいました。
すると、思いがけないものが出てきました。
七宝の絵の奥から現れたのは、こげ茶色の皿の形をした銅板だったのです。
これが七宝焼の秘密と知り、常吉は今まで以上に焼き物作りにはげみました。
それから数か月後、ついに直径5寸(15センチ)の七宝焼小鉢を作り上げました。
それは天保4(1833)年、七宝焼の研究を始めて実に14年、常吉が31歳のときでした。
寛永3(1850)年、尾張藩勘定奉行のお召しで七宝焼を献上しました。
藩公東上のおり、将軍の献上品として七宝焼を制作しました。
また、明治16(1883)年には、賞勲局から銀杯を賜りました。
常吉は病床でこれを聞いて感泣し、病苦の中で花瓶を送ろうとしましたが、果たさぬまま、明治16(1883)年9月逝去しました。
以来七宝焼は、日本を代表する工芸品のひとつとして、世界にその名を広めました。
↓名古屋の史跡と文化財よりスキャン
中川区内にある名勝標札巡りについて
「万場宿跡」の名勝標札…中川区万場一丁目 (中川区名勝標札 №5)
「下之一色漁港跡」の名勝標札…中川区下之一色町新川堤防外法21(中川区名勝標札 №4)
「徳左川跡」の名勝標札…中川区豊成町1番53(中川区名勝標札 №3)
「空雲寺」の名勝標札…中川区中島新町4丁目1201(中川区名勝標札 №2)