中日新聞、なごや地名物語、Vol.18で、
東区車道を取り上げてありました。
手持ちでの資料で、
東区車道”の町名の由来について調べてみる。
↓Wikipediaより
車道町は江戸期に成立の町名で、
車道筋は駿河道筋(飯田街道)の東田町(現中区)から
北へまっすぐに、建中寺の東側を通り出来町まで伸びている。
↓ひがし見聞録より…二説あり
①この町筋の西北に当たる御下屋敷造営のさい、
東山付近から石材を運ぶ車が煩雑に曳いて通ったことから町名が付けられた説。
(注)御下屋敷については、
御下屋敷跡…東区葵一丁目3-21(名古屋市教育委員会設置の標札巡り…東区№1)
②昔、建中寺で葬式があった時、
供養の意味を兼ねて品物を建中寺の裏門から車に積んで通った道筋といわれる説。
↓ひがしネット 東区あらかるとより
車道町 (kurumamichi)…二説 | ||
◎この町筋の西北に当たる御下屋敷造営のさい、東山付近から石材を運ぶのに車を曳いて通ったところから町名がつけられたといわれる。 ◎一説にはむかし建中寺で葬式があったとき、供養の意味をかねて品物を同寺の裏門から車に積んで通った道筋とするものといわれていた。 ※享保(きょうほ)12年(1727)に開発され、明治11年(1878)朝日町、糸屋町を合わせて車道と改称、南北1kmにわたってのびた細長い町筋である。 |
↓東区史よりスキャン