御下屋敷跡…東区葵一丁目3-21(名古屋市教育委員会設置の標札巡り…東区№1) | 「洋ちゃん」のひとりごと

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私「洋ちゃん」、

名古屋市教育委員会設置の標札巡りをしています…東区№1。

その一環として、


先日(26日)、東区葵一丁目3-21にあります

御下屋敷跡の標札を訪ねる…。

 

※ 名古屋市東区生涯学習センターの前に設置

 

「御下屋敷跡」について…ひがし見聞録より抜粋

・現在の葵一丁目から代官町にかかる6万4千坪の広大な敷地に造られたのが「御下屋敷」

・尾張二代藩主光友が造った藩の別邸で、1679(延宝7)年に建設された。
・庭園は和風の回遊式で、戸山屋敷(尾張藩江戸屋敷)と同じような造りとなっていた。

・八代将軍吉宗と対立してこの屋敷に七代藩主宗春は蟄居謹慎となった、

 

第七代藩主宗春はこの屋敷を好み余生を送る。

・庭には堀をめぐらし、京都東山・清水などの名所や、東海道五十三次にちなんだ庭園を

 造って楽しんでいた。

・1782(天明2)年の大火で屋敷や庭園のほとんどを焼失し荒廃した、

   ↓
・天保年間(1830~44)には、十二代藩主斉荘によって、御庭焼といわれる東山焼の窯

 が造られる。

   ↓

・瀬戸や赤津の工人を招いて皿や器を焼かせていた。

   ↓

・斉荘の自作には「金城東山」の刻印がある。


・明治になり、屋敷地一帯の建物は壊され、売りに出される。

暫らく、広域な土地に買い手がつかず、畑や小山が大正期まで残されていた

 

↓ 江戸時代の地図による「御下屋敷(青の太枠の部分)         

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 ↓ 現在の地図に重ねた「御下屋敷」の図。
「洋ちゃん」のひとりごと  

 

(追記)

2016年6月17日にタイトル

「葵町の水田と養蜂園/明治末期の風景」…御下屋敷跡(現)東区葵一丁目辺り

としてブログしてあります。

こちらと、併せてごらんください。

 

 (18,698歩)

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参考

(2021年10月9日に追記)