兼松正受翁遺愛碑をデジカメ…千種区振甫町4丁目 | 「洋ちゃん」のひとりごと

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先日(16日)、

早朝散歩で千種区振甫町4丁目に建つ、

兼松正受翁遺愛碑(かねまつしょうじゅおういあいひ)を訪ねデジカメ。

 

兼松正受」について

 文永5年(1776)に名古屋新田長になり、振甫池の南東にあった鉄炮坂池を私費で築造し、

6町6反の水田を開拓した。

文化4年(1807)、63歳没。

地図の説明

↓ 赤矢印の場所(水道のみち緑道)

↓水道みち

デジカメ…A.M.6:30分頃に写す

↓裏面

↓拡大

 

手持ち資料をスキャン

↓名古屋の史跡と文化財より

樋口好古について

 碑文を記した樋口好古(1750-1826)は尾張藩士・農政家。

『郡村徇行記』39冊は職分に役立てようと尾張全村と美濃、近江の藩領諸村を踏査し、記録したもの。

他に『牧民忠告解』、『詩稿』などの著書がある。

 

↓千種区史79ページより

 

(注)慶長15年(1610)に、名古屋城が築城されると、上町(うわまち)辺りに居た農民たちは、

四方に散在し、東の方は東畑といって上野村、古井村、丸山村,川名村、本願寺村、御器所村、前津小林村などと数戸ずつ散在。

※水利に恵まれず原野のまま放置されていた。

東畑あたりを『名古屋新田(那古野新田)』と云われている。

 

名古屋新田の庄屋は兼松家、小塚家が交互に勤めた。

(付記)

兼松家は「池の内東」で「字高見」に属する地に」屋敷を設ける。

小塚家は「吹上八幡社の南」に設けた。