お断り…発行年月は分かりませんが、
大正期~昭和期初期頃の絵葉書???…推測です
左)覚王山記念塔…略称;征清記念碑
・正しくは日清戦役第一軍戦死者記念碑という。
・明治27年~28年(1894~5)の日清戦争に名古屋の第三師団から出征した将兵726名を悼
んで設置された砲弾型の碑である。
・計画当初は広小路通りの東端であったが、竣工時には既に道路も電車も千種まで延長さ
れていた。
・道路中央に取り残された記念碑(奉安塔)は、
大正9年(1920)12月、東郊の覚王山へ移転した。
(付記)
↓ 今月11日、
名古屋市内「懐かしい絵葉書」シリーズ…№6で紹介した絵葉書です
★突き当りに覚王山奉安塔…略称;征清記念碑がかすかに見えます。
(右)(大名古屋)官祭招魂社…現)護国神社
・明治元年(1868年)尾張藩主徳川慶勝が、戊辰戦争 で戦死した藩士ら25人の霊を現在の
名古屋市昭和区川名山に祀り、翌明治2年5月、「旌忠社」として祠を建てたのに始まる。
・1875年(明治8年)に招魂社 となり、1901年(明治34年)には官祭招魂社となった。
・1918年 (大正7年)城北練兵場(現在の名城公園北園内)に、更に1935年(昭和10年)には現在地
に遷座。
・1939年(昭和14年)に愛知縣護國神社に改称した。
・1935年(昭和10年)遷座時の社殿は、1945年(昭和20年)3月19日の空襲で一切を焼失した
・第二次世界大戦後「愛知神社」に改称したが、1955年(昭和30年)に元の社名に復した。
・1958年(昭和33年)に本殿・拝殿等、1982年(昭和57年)に社務所、1998年(平成10年)に神門・
舞殿・廻廊が再建された。
↓ 拡大…1935年(昭和10年)遷座時の社殿