中村公園シリーズ №4です。
中村公園について…6月19日にデジカメ片手に赴く
中村公園の成り立ち、
・中村公園一帯は、古くは尾張国愛智郡中村と呼ばれる農村であった。
・慶長20年(1615)の豊臣家滅亡後も、太閤屋敷跡の名は残り、秀吉生誕地として世に知ら
れていた。
・明治維新後、中村は愛知県の管轄となった。
・豊臣秀吉の誕生を記念して(秀吉再評価の機運を受け)明治18年(1885)に建てられた豊國神社を中心に、
明治34年(1901)その周囲を県営公園とて整備したのが中村公園の始まり(瓢箪池が作られ、周囲には藤がうえられた)です。
※愛知県営公園として県内4番目に出来た公園です(1番は浪越公園(中区大須演芸場東隣)
・大正6年(1919)には造園の大家であった東京大学本多静六教授の設計により大改良された。
↓ 中村公園の石碑の裏側に愛知県と彫りあり
明治43年(1902)に開催された、
第10回関西府県連合共進会の博覧会が開かれた際、
同時に中村公園内にも料理店、茶店、売店等が多く設置され、園内も整備された。
大正10年(1921)愛智郡中村は名古屋市に合併し西区の一部となり、
大正12年(1923)中村公園も名古屋市の所有となりました。
★中村公園は市立公園の先駆けとなり、太閤池や関白池、香りの園、児童遊具などが
次々に整備された。
↓ 上のデジカメ、左側の石碑に…名古屋市西区と彫りあり
中村公園前の五差路横断歩道の信号は、
視聴覚の不自由な方が音響により安全に渡れるように作られ、
ピヨピヨ信号とかカッコー信号とも呼ばれ、
名古屋市内で最初に設置された音響信号です。
(付記)