龍泉寺を訪ねる…守山区「伊藤萬蔵さん寄贈の石造物巡り」 | 「洋ちゃん」のひとりごと

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私「洋ちゃん」、

伊藤萬蔵さん寄贈の石造物巡りを楽しんでいます。

その一環として


先日(1日)守山区にあります、

龍泉寺を訪ねました。

  地図の説明

龍泉寺について

・松洞山

・天台宗

・尾張四観音

(名古屋市守山区史跡散策路より引用 ↓)

・本尊は馬頭観音で、延暦14年(795)に伝教大師(最澄)の創建と伝えられ、熱田神宮の奥

 の院と称する名刹。

・尾張四観音の一つで節分には大いに賑わう。

・江戸時代には大森合宿や吉根合宿等で、豊作や雨乞い祈願のための「龍泉寺おまんと(う)」が奉納された。

・龍泉寺は小牧・長久手の戦いで秀吉がここに布陣し、小幡城の家康と対峙した時、寺堂

 を焼き払われたが、慶長3年(1598)秀純和尚が再興した。

・その後明治39年火災により仁王門・多宝塔を除いて全焼、44年再建。

・龍泉寺には国重要文化財の仁王門と木造地蔵菩薩立像がある。

・他には円空作の馬頭観音・千体仏五百数十体等がある。

・節分には本尊にちなんだ春駒が授与されている。

・龍泉寺城が復元され、宝物館となっている。寺の裏の展望台からの眺めはすばらしい。
 



デジカメ

     

山門・左に鎮座 ↓

     山門・右に鎮座 ↓
     

本堂 ↓
 
  

     ↓ 赤矢印は「伊藤萬蔵」さん寄贈の線香立(屋根付)
      

多宝塔
 

伊藤萬蔵さん寄贈の石造物
設置箇所…多宝塔前

 (注)下部地中に埋まる
○線香立(屋根付)
    

 右面 大正五年三月建□
   
 正面 奉納 

 左面 名古屋市西區塩町

        伊藤萬□
   


設置箇所…山門前右手 石屋根付

 (注)線香立・花立(四角)一対に住所氏名を刻む

○四国八十八ヶ所第八十八番札所)

 ◎石仏(薬師如来・弘法大師)

  台座正面 八十八番

   台座柱正面 名古屋市西區塩町

               先祖代々

              伊藤萬蔵

   台座柱左面 大正五年六月

 ◎石屋根

   右前柱 名古屋市西區塩町

   左前柱 伊藤萬蔵

(追記)

石像物の下の部分をスキャン


龍泉寺・尾張名所図会


2013年1月13日にブログした龍泉寺城について」の部分をスキャン

弘治2年(1556年)織田信行が、

 岩倉城主織田伊勢守信安と図って兄、織田信長を討つため築城した。

★龍泉寺は八世紀末頃から在り、よって寺のあるところに城が造られた。


・織田信行が稲生ヶ原合戦で兄、信長に苦杯を喫し廃城になる。


・その後 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際、

  家康は、長久手の戦場を引き上げて近くの小幡城で兵を休めていた。

・長久手での大敗を知った秀吉が龍泉寺城に急遽、大軍を入れ布陣をする。


・秀吉はこの城に留まり、防御に備え一夜のうちに堀を掘り

  翌日家康と決戦すべく、小幡城へ忍びのものを使わしたが、

   家康は秀吉との決戦を避すぐに小牧山本陣へ引き上げてしまう。


なぜか、秀吉は家康の策略を警戒し、兵を退避させてしまう。


・この時、秀吉と家康が雌雄を決する戦いをしていれば、その後の日本の歴史

 は変わっていたのでは???。

・この後、両雄は二度と戦場で相まみえることはなし。


☆龍泉寺城は短命の城であった。


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龍泉寺本堂の後ろにある二層の龍泉寺城です。

かってここにあった織田氏の砦を出来るだけ忠実に再現いているそうです。

 



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左)秀吉の一夜堀の空堀が、

「豊公一夜堀」の石碑が竹藪の中に残っています。

危険なため一般人の立ち入りは禁止になっています。

「尾張の古城」の本67ページをスキャンしました。

実は私「洋ちゃん」は相当以前にこの石碑を見ています。

いつ設けられたかは???です。






 

(9,042歩)