東海道「富部神社→地蔵院→白豪寺→熊野三社松巨島→山崎城址(安泰寺)」に行く | 「洋ちゃん」のひとりごと

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昨日(7日)、ASC歴史・文化悠遊会10月度の行事

 「南区史跡探訪」に参加してきました。

 

コースは、

「富部神社→地蔵院→白豪寺→熊野三社松巨島→山崎城址(安泰寺)」です。


     

デジカメしてきました

呼続遺跡の標札富部神社に向かう途中にありました。

   呼続小学校の校庭内にあり

 

長楽寺…富部神社に向かう途中にありました。


 

富部神社
・「蛇毒神社」「戸部天王」とも呼ばれる。

・慶長8年(1603)、清洲城主松平忠吉が西方にあった祠を現在地に移し、

  慶長11年(1606)に本殿、祭文殿、回廊、拝殿を建てたと伝えられている。

・本殿は一間社流造、檜皮葺屋根で、

  特に正面の蟇股、屋根の懸魚(げぎょ)桁隠は桃山様式で作られている(国の重要文化財)。

・また、境内の山車蔵には、

  享保12年(1727)作の「高砂車山車」が保管されている(市指定有形民俗文化財)。

・神宮寺として天福寺をもち、

  百石の社領を有していました。尾張藩主の崇敬も厚かったと伝えられている。
  
     
 
   お祓いを頂いてきました。
    

     拝殿の前に貼ってありました

  「高砂車山車」です
   

  後ろに拝殿があり
 

 鳥居を入って直ぐ、右側にありました。

 「明治天皇御駐蹕(ひつ)遺跡碑」…明治4年明治天皇御休憩の記念碑


湯浴地蔵(鉄地蔵)…地蔵院

・高さ約2.3メートルの坐像です。

・地蔵院に安置され、鎌倉時代に鋳造されたと伝えられている。

・人びとが湯を浴びせて祈願したことから、「湯浴地蔵」と呼ばれるようになる。

・戦災と伊勢湾台風の被害に遭ったため、今では仏頭と両掌だけが旧形をとどめている。

  

付記)

名古屋市内には4体の鉄地蔵があり。

 熱田の尼寺如来宗 青大悲寺に1体

 金山の西山浄土宗 観聴寺に2体

 

白豪寺 (年魚市潟勝景跡)

・元亀2年(1571)の創建と伝えられている。

・昔、このあたりは、あゆち潟と知多の浦を望む勝景の地で、万葉歌人などが歌に詠んだところです。

・名勝・旧「年魚市潟」展望地として、市に指定されています。

・「あゆち」は「あいち」に転じ、県名の語源となる。

・また、源頼朝が京都へのぼる途中、ここで休んだので「棧敷山」とも呼ばれています。

・境内には、勝景跡の碑歌碑芭蕉句碑などが点在している。

 右下の崖下が熱田との往来の船着場であり、

   鎌倉街道の笠寺台地の発着地点と云われる
 
      
眉間山
 

本堂
      

  芭蕉の「春雨塚」:春雨や 戸部山崎の やねの苔;ばせを」

  

「年魚市潟勝景」碑:大正9年(1920)愛知県文化名勝の地とされ軒が建立

黒田清輝歌碑「わたつみの~~」

 万葉歌碑「年魚市潟~~」

 

 

熊野三社松巨島

・山崎城主佐久間信盛が永禄年間(1558から1570)に守護神とした社を、山崎村の氏神として寛永4年(1627)にこの地に移した。

・社務所中庭には、大きな字で「松巨島」、背面には「明和三丙戌歳(1766)…」と彫られた手洗鉢があり。

・「松巨島」と呼ばれるようになった理由は、この地を熱田方面から眺めると、この一帯が「松の大きな島」に見えたからだ、と伝えられている。

  
  
        

 

山崎城址(安泰寺)

・安泰寺の境内は、別名「羽城」とも呼ばれた「山崎城」の跡地にあたる。

・東西が約45メートル、南北が約56メートルで、三方が崖で囲まれた要害の地だった。

・最初の城主は蔵人浄盤、次に桶狭間合戦で戦死した加藤弥三郎、最後が佐久間信盛でした。

・廃城後、桜の宝珠庵がこの地に移され、安泰寺となりました。

 
 
  
本堂の前にて