先日
『名古屋城と清須越(名古屋遷都論)』について学んできました。
その要旨についてまとめました。
1.名古屋城築城の経緯
Ⅰ.徳川家康、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝ち、慶長8年(1603)征夷大将軍に任じられ
江戸幕府を開く…そのとき尾張の本拠地は清須にあった。
Ⅱ.しかし、大坂城には秀吉の子‘秀頼’が西国の豊臣恩顧の諸大名を従え、強い勢力を保持し
家康にとっては相変わらずの脅威であった。
Ⅲ.当時の清洲では、その攻撃等に耐えられないと考える。
遷都論の論拠(山下氏勝の建議…尾張初代義直の家臣で守役)
①清須は尾張平野の平城で籠城が困難
②清須は周囲が低湿、大軍を容れることが困難
③五条川は水攻めの危険
④井戸水が不足
⑤五条川の氾濫、城下の被害たびたび
遷都(新しい城の候補地)として
①那古野台地…清須より十数倍する広大な土地
台地の西端、北端が高い崖、
水害の心配なし
②古渡
③小牧山
家康が戦略的見地から、
慶長14年(1609)すぐ東に位置する那古野台地、尾張に名古屋城築城を決める。
Ⅳ.慶長15年(1610)名古屋城築城に着手する
→慶長19年(1614)にほぼ完成
築城には、普請を豊臣側の外様大名である加藤清正・福島正則ら20の諸大名に命じ、相手方の財力を疲弊させ、その上で堅固な城郭を建てる。
2.清須越
家康は慶長15年(1610)名古屋城築城が始まると命により、
藩士のみでなく、町家や寺社など建築物を人ともども清須から、名古屋へ強制的に移転させた。
※神社三、寺は百余、町や橋の名も名古屋へ移される。
これを当初は「名古屋越」、後には名古屋を中心に考えて「清須越」と呼ぶ
当時の臼ひき唄はいう。
「思いがけない名古屋が出来て、花の清須は野となろう」
(付記)
当時、尾張の中心地であった清須の人口は約7万人と想定
…人力と牛馬のみでの大移動~想像を絶する大移動をした。