先日(19日)
名古屋市南生涯学習センターの講座
「東海道を歩いて発見(その2)南区の歴史」
に参加してきました。
※11月5日に「東海道を歩いて発見(その1) 」をブログしました。
私「洋ちゃん」南区内の‘東海道筋”を先回、同様久しぶりに散策。
…今回も始めて訪ねる場所(史跡)もあり、楽しみながら参加。
本殿は古墳 の上に建っている。
大正 5年(1916年 )、近在にあった熊野権現社の祭神を合祀。
また、天保 年間の作と伝わる馬具 が伝わっており、毎年10月の例大祭の際に展示される。
墳径36メートル、墳高4.5メートルの円墳 状だが、前方後円墳であるとの説もある。
墳丘の北側から西側にかけて、周濠の一部(幅3メートル)が残っており、市内に残る古墳の中では状態が良いとされる。
かつて墳丘から須恵器 が発見されており5世紀末の築造と推定されているが、正式な発掘は行われていないため内部主体は不明。
直径約36メートル、高さ約4.5メートルの円墳です。古図には「比米(ひめ)塚」と記されています。
保存状態が良く、北側から西側にかけて幅約3メートルの濠が一部原形のまま残っています。
2.富部神社
「蛇毒神社」「戸部天王」とも呼ばれます。
慶長8年(1603)、清洲城主松平忠吉が西方にあった祠を現在地に移し、慶長11年(1606)に本殿、祭文殿、回廊、拝殿を建てたと伝えられています。
本殿は三間社流造、檜皮葺屋根で、特に正面の蟇股、屋根の懸魚(げぎょ)や桁隠は桃山様式で作られています(国の重要文化財)。
また、境内の山車蔵には、享保12年(1727)作の「高砂車山車」が保管されています(市指定有形民俗文化財)。
当社は神宮寺(社宮寺)として天福寺をもち、百石の社領を有していました。
尾張藩主の崇敬も厚かったと伝えられています。
富部神社です
名古屋市教育委員会設置の名勝標札
本殿を横からデジカメ 重要文化財指定
左)
社務所に置いてありました。
明治元年(1868)9月27日東京への奠都(てんと)の前触れとして東下りしたとき、蛇毒神社(富部神社)の近くで休憩を行い、これを記念して休憩した場所に大正2年(1913)3月8日に富部神社・呼続町有志が記念にこの碑を建てた。
3.泉増院
笠覆寺十二坊の一つ。
玉照姫の像が安置されています。
玉照姫は、風雨にさらされていた観音様に自分の笠をかぶせてあげたことが縁で、藤原兼平の夫人になった女性です。
「玉照姫伝説」は、古くから伝わる有名なシンデレラストーリーです。
縁結びのご利益があると言われ、若いカップルや女子高生がお参りする姿も見受けられます。
4.笠寺観音(天林山笠覆寺)
笠寺観音は正式名を「天林山笠覆寺(てんりんざんりゅうふくじ)」といい、甚目寺・荒子・竜泉寺とともに尾張四観音の一つとして古くから親しまれてきました。
天平年間(729ごろ)に僧禅光が開き、十一面観音を安置したのが始まりです。
当初は「小松寺」と呼ばれていました。
その後荒廃しましたが、延長8年(930)に藤原兼平がこの地に復興し、現在の「笠覆寺」という名前になりました。
また、嘉禎4年(1238)に僧阿願が再建しました。本堂は宝歴13年(1763)に建造されました。
※笠寺観音については以前にブログしましたので簡略にしました。
5.東光院
笠覆寺十二坊の一つとして創建されました。
また、本堂は江戸中期に建立されました。
星崎城主山口重勝の所持品であった天満天神菅原道真の肖像画、別名「出世お神酒天神」が所蔵されています。
また、宮本武蔵が南区に滞在した際に東光院で過ごしたという伝承が残っており、左右両腕で書き分けた「南無天満大自在天神」の掛軸、武蔵の「肖像画」、武蔵自作の「木刀」が所蔵されています。
東光院の山門
東光院の境内にある‘笠寺天満宮”
本堂? 貼ってありました。
6.笠寺一里塚
慶長9年(1604)、徳川幕府は、江戸橋を基点として、東海道をはじめ主要街道に一里塚を築きました。
36町を一里(約4キロメートル)とし、一里ごとに土を盛って塚を築き、その上にエノキやマツの木が植えられました
一里塚は旅の目印となったり、人足が荷物を運ぶとき運賃計算の目安にされたりしたようです。
市内にはかつて9カ所に一里塚があったと言われていますが、現存するのはこの「笠寺一里塚」だけです。
かつては一対の塚で、道を隔てた南側に大正時代までムクノキが植えられていました。
土を盛った上に大きなエノキが根を張っています。