東区の「文化のみち」についてです。
名古屋城から徳川園に至る南北1.5km、東西3.5kmほどの一帯にある、
このあたりには、
江戸時代の尾張文化
…名古屋城、長屋門(主税町にあり)、徳川園、建中寺、町筋に「葵紋」の屋根瓦等々
明治時代以降の近代文化名古屋
…輸出用陶磁器、織機製作、時計、バイオリン等の機械工業の草創等
…学校教育(第一師範、県立一中、幼稚園教育、私学校等)
を象徴する景観重要建造物等指定物件などが多くあります。
特に「白壁・主税・橦木町地区」については、
昭和60年に名古屋市から街並保存地区に指定されています。
江戸時代、
名古屋城の東の台地上に
伸びた武家屋敷が
「文化のみち」のルーツとなる。
「白壁・主税・橦木町地区」の町名の由来についてです。
1.白壁町(北側の筋)
慶長遷府にさいして、豊田某という武士がこの地に居をかまえ、高塀をはじめて白壁として以来、武家の住宅地として堂々たる白壁の塀が建ち並んで、自然にだれいうとなく白壁町の名称が生まれる。
2.主税町(真中の筋)
清須越しのとき、野呂瀬主税という人がはじめて住んだところから彼の名をとって名がつ けられたといわれる。
また東主税町は古くは東千柄町または主税筋と呼ばれ、東に建中寺の森をひかえた武家屋敷の町であった。明治11年(1778)に現在の町名となる。
3.橦木町(南側の筋)
旧市電片端線の一本化を東西に平行に走って、上竪杉町で西を区切られてT字型とな って、その地形が撞木(鐘を打つT字型の棒)に似ていることから撞木町(後に撞から橦にかわる)の名が生まれる。
緩やかな坂道です。
周辺は今でも高低のある地形で、山吹谷公園の東側はゆるやかな坂となっています。
江戸時代はは今より起伏に富み、谷には清水が流れ、雑木の間に山吹が多く、春の終わり頃、一面山吹が咲いたことから、山吹の谷と呼ばれるようになる。
昔、山吹谷は春の終わる頃になると、人々がお酒やご馳走をもってこの谷を訪れ、谷の清流や丘に山吹の咲き乱れる風景を楽しみ、うたいおどる行楽の地。
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私の収集品の「山吹谷」(現在の山吹公園)の掛け軸です。
軸の全景です。
人物の部分です。 歌の部分です。
表の箱書です(沼田朴斎着色山吹台図)
(石河)有麟の書付です。
*下の画は‘尾張名所図会に描かれている山吹谷”です。
(ネットからの写です)
この絵は、尾張名所図会に描かれた、かつての東区東片端町・橦木町付近の風景です。
現地は武家屋敷町となる前は、山吹の谷と呼ばれる景勝地でした。
山吹の谷のことを尾張名所図会は「いまもなお、山吹のところどころにのこれるは、昔の面影ぞかし」と記しており、幕末に尾張名所図会が描かれたときは、すでに山吹谷は武家屋敷町でした。
この尾張名所図会はその酒宴の様子を描いたものです。
現地は都市高速道路が走りビルが建ち並んでいますが、一歩通りを入ると閑静な住宅地で、大正から昭和初期の貴重な建物が数多く残っており、町並保存地区に指定されています。
今、現地を訪れても「山吹」という地名はありませんが、小学校や公園の名称として残されています。
なだらかにのぼり下る坂道は、かつて景勝の地と賞された山吹谷のおもかげを伝えています。
(財団法人 名古屋都市センターの記事より写)