かかしんぼうぶらり散歩
やっと古代の都、「恭仁宮(くにのみや)」跡に行ってきました。
前回は恭仁京の広大な土地だけ紹介しました。
前回紹介した恭仁京跡です。広大な土地だけです。
今回は田舎へ帰った帰りの道中で立ち寄り「恭仁京」(くにきょう)の本丸
「恭仁宮(くにのみや)」を見学したので紹介します。
ちなみに
「恭仁京」とは人々の生活空間となった区域を指します。(恭仁宮も含む)
「恭仁宮」は政治を行う所で天皇の住まいと政治を行う中心施設を指します。
この時代の天皇は聖武天皇でした。
さて今回の記事はこの恭仁京の流れを知らないと意味が通じないので少し
だけ触れていきます。
まづ恭仁京というのは何か、これは奈良平城京の都を京都山城の国へ都を移
したつまり遷都の地です。
(当時山背国(やましろのくに)相楽郡恭仁郷)
遷都は以前にも書きましたが流れはこうです。青色は訪問済み 赤は今回
藤原京→平城京→恭仁京(この間紫香楽宮を造営した)→難波宮→平城京→
長岡京→平安京と都替えは行われました。
図解すると次のようです。(パンフレットより借用)
以上で遷都の流れは終わります。
前回の投稿で大阪の難波宮を記事にしましたが遷都は恭仁京が先に行われました
遷都の概要はここまでです。以降は写真で説明していきます。
恭仁京跡の場所
(京都府最南端に位置する木津川加茂町にあります)
ここには恭仁宮の政治を司る大極殿があった所です。
この石積みは昔のままだそうです。
左に少しだけ見える建物は小学校です。
恭仁小学校です。明治6年開校 昭和11年建築のレトロな木造校舎です。
恭仁京大極殿跡の石碑です。
恭仁宮 大極殿跡(山城国分寺 金堂跡)
第一次平城京から恭仁京に遷都するとき大極殿を移設した。
その後難波宮に遷都するときには大極殿は残したまま
遷った。その後は国分寺の金堂として使われた。
大極殿礎石
民家とコスモス畑
この辺一帯がコスモス畑になっておりもうじき
きれいなコスモスが咲くそうです。まだ咲き始めです。
マムシが出るそうです。注意書きの看板が置いてありました。ちょっと怖いね~
国分寺跡の碑 ここに七重塔が建てられていました。
恭仁宮の廃都後、大極殿は山城国国分寺の金堂として
使用されて、金堂の東側には七重塔が建立された。
七重塔礎石です。15個残っています。
寄ったときはNPO法人「ふるさと案内かも」の
皆さんがこの基礎石に座り昼食をとっていました。
ふるさと散歩のガイドをやっているそうです。
七重塔を復元すればこうなります。(パンフレットだけですよ。イメージです)
今は復元はありません。奥に見えるのは
大極殿です。
大極殿を復元するとこうなります。復元の建物はありません。(これもイメージだけですよ)
恭仁宮には、江戸時代に建てられた例幣使料碑が多く残っています。
江戸時代、瓶原(みかのはら)の一部が例幣使料として京都代官支配となる。
例幣使は伊勢神宮と日光東照宮に朝廷の使いとして毎年派遣され、膨大な
費用を必要としたのでこの費用をまかなうための御料地とした。
例幣使料碑はこの御料地の境界を示す碑で全国的にもこの地にしか
残されています。(パンフレットから)
以上が恭仁京、恭仁宮の紹介でした。
長くなりました。
最後まで読んでいただき有難うございました。