今日は理解のレスポンスについて探っていきます。
理解のレスポンスとは聞きなれない言葉だと思います。
その言葉を思い立ったのが理解することはどういうことかも氣になっていたものですから。
理解とは理性で分かるというような理知的な分野のことを指します。
本能を覆い隠す人としてのタテマエの側面だったりすると思います。
それは世や人のためにと思って生じる爬虫類系と人に違いを見る点に思います。
一般的に理解が通用する言葉をあえて説明を加えることで難解っぽくなります。
この観点は誰でも分け隔てなく通用する言葉を築いて、理解に及んで欲しい考えによります。
けれども感覚的に分かる人であれば、ややこしくも面倒な講釈と思います。
理解の上では言葉を知らないと始まらないかもしれません。
理論的なことであれば尚更です。
ただ感覚的に理解出来るって、一つには人そのものの発する人柄とかをキャッチした上で分かるといった感じかもしれません。
感覚に秀でた人は多いのでしょうし、ハンデを抱える人などは能力を補う上で感覚的な分野を発達させる感じも多いことと思います。
その意味では僕も精神を一時病んだことで感覚で補ってきた部分はあります。
感覚に知識を加えることで理論掛かってくる感じもあります。
体系化した理論を一律に学んできたわけではないので自分のセンスありきです。
理解については、文脈だったりを飲み込めるかにもありそうですが、レスポンスに掛かる部分ってなんでしょうか。
反応の感じにはなりますが、この点が氣になるのは多分僕が子供の頃に父親から言われていた「マイペース」って言葉が、自分にはかんにさわることだったからだと思います。
子供の頃の感性では言ってる本人が例えば今回の場合、「マイペース」だなんて言う風潮や土壌はなかったので自分の負荷になることでもありました。
その意味では誰でも合わせ鏡みたいなものであるかもしれません。
響き合う層が多いところが一般的な目線であることや一般論であるところかもしれません。
これを集合的な無意識にあてはめると一般論との層が意識下で合致しているかは微妙になりつつあると見えます。
意識の層で多様性が混在化する傾向にあると思える点です。
僕は理解において意識的に分からない人を置いて、理解し合える人同士で形成される社会は純粋に楽しめる世界観のタイプではないので、ややこしい性格にもなります。
面倒な人は反面、利他的な精神も有することに思います。
この感覚は多分、自閉的でアスペルガー氣質によるものと思います。
昨今のゲーム中毒症状の特質もアスペルガー的によるものが多分にあるものと思います。
これが障害かと問われると症状であったり、氣質、特質なわけで障害ではないと思います。
障害という見方も出来ますが、病気としての診断で当人がレッテルを貼ることでバランスを安定に保てるのなら苦肉の策としては有効とも思えます。
ぼくは幸いそんな感じかなあくらいで統合失調症とずっと向き合って共にある感じですから、この立場の中でどう生きやすく出来るかクエストは続きます。
今日はなんのこっちゃでした。