ショートショート小説

   「近歩三の末裔」 (1)

 略称「近歩三」といわれた旧日本陸軍の近衛歩兵第三連隊の遺族宛として「近歩三の会」への招待状が突如として八重垣隼人に舞い込んだのは曽祖父の孝一が世を去ってから30年目に当たる時だった。孝一は近歩三の第一小隊長の少尉だった。近歩三は1936年に陸軍青年将校が蜂起した2・26事件の中枢部隊であった。指揮官は中橋基明中尉だった。事件には安藤輝三大尉が指揮する主力部隊を含めて1500名に近い将兵が加わった。首相官邸や陸軍省、警視庁を占拠し高橋是清蔵相や渡辺錠太郎教育総監、鈴木貫太郎侍従長など政府要人を殺傷した。

 蜂起部隊は昭和天皇の「お前たちは反乱軍である。朕自ら鎮圧せん」との逆鱗に触れ刑に服した。事件が沈静化した後に近歩三の将兵たちは「いつ撃沈されてもおかしくはない」とみられたボロ輸送船に詰め込まれてマレーの虎といわれた山下奉文少将旗下のマレー戦線へと送られた。一説には2・26事件の咎で「死んで来い」という派兵だったとの風説が流れた。天皇を守護するのが主任務の近衛兵が皇居がある首都を離れるのはかつてなかったからである。八重垣隼人の曽祖父・孝一もその輸送船でマレー戦線に向かったのだった。

「近歩三の会」の会場となった東京・九段会館の一室に集まったのは隼人のほか二人だけだった。ひとりは25歳の隼人より10歳年長の星合勇一でもう一人は隼人と同年の女性・鴨志田房子だった。互いの自己紹介が済んだ後にこの招待状の発起人である星合勇一がこの集まりの趣旨説明をした。勇一は開業外科クリニックのほやほやであり卒業した母校の非常勤講師もしている。鴨志田房子は沖縄に本社がある新聞社の東京支局記者で主に首都圏の政治面を担当している。八重垣隼人は「空飛ぶ車」の開発に社運を賭け最新ドローンの開発では先頭を切っているテック企業のエンジニアである。

 勇一が今回の「近歩三の会」を企画したのは曽祖父の星合一郎が残した診療所を改修するに当たり整理をした書斎の片隅にあった小箱に起因する。すなわち曽祖父が所属した近歩三の分隊名簿を発見したのである。勇一はひい爺さんの一郎が軍医として旧陸軍に招集されたことは知っていたが近歩三の所属だったことはこの時初めて分かったのである。日中戦争から太平洋戦争の遠因ともいえる大事件に自分の先祖が関係していたことをどのように受け止めたらいいのか茫然自失は免れ得なかった。

「ボクたちのひい爺さんたちが起こしたことが縁で集まってもらったけど僅か3人だけでした。もう忘れ去られたことなのかも知れませんね。でも、新しい戦前といわれる今、ボクたちの父親を含めて先人の残した出来事などを話し合う意義はあると思うんです。ボクたちのご先祖さまはみんな将校だったんです。ボクのひい爺さんは軍医で大尉でした。鴨志田さんは八重垣さんのひいお爺さんと同じ少尉と残された名簿にありました」
「そうです。ボクのひい爺さんの八重垣孝一少尉と鴨志田忠少尉は大変仲が良かったようです。その三人の中では星合大尉がお目付け役だったようです。ただとても個性派の軍医さんだったようです。二人が止めたにも拘わらず夜中にパンツ一枚で軍医の特権を活かして敵の前線近くまで歩いて視察に行ったのには軍のお偉いさんが唖然としたという話はマレー戦線で有名だったと聞きました」
 
 この日の「近歩三の会」は後日、各人の求めに応じて会うことにした。そして現在の政治情勢等について情報交換をすることを合意して散会した。若い三人はいま自分たちがいる九段会館が雪降る2・26事件の翌日におかれた戒厳令の司令本部だったとも知らずコーヒーとケーキを味わって再会を約した。

 (続く)