東京散策の記
 
「千鳥ケ淵戦没者墓苑」
 
 桜の季節を迎えて九段の千鳥ヶ淵と靖国神社を訪れる人は多い。まだ、三分咲きほどの平日でも老若男女にインバウンドも加わり九段会館や田安門、武道館の屋根を横にみながら九段坂を上って行く。眼下のお堀にはカラフルなボートが遊んでいる。若い男女の弾けるような笑顔が遠目にみえる。吾人と同年配の戦中派オールド・グループは互いの呼吸を慈しみながら歩を進め桜の下に立ち止っては旧交を温めあっているのだ。まさに日本の春爛漫である。
 
 九段坂を上り詰めて左に折れ桜を愛でながら300mほどいくと右側に千鳥ヶ淵戦没者墓苑がある。桜並木と道路ひとつ挟んだだけでお堀端の賑やかさとは隔世の静寂がここにはあった。花見気分とは隔絶した厳かな空間に身を置いた。御霊に手を合わせに来ていたのは吾人のほか二人だけだった。たまたま居合わせた三人の男たちは白い菊を捧げて共に合掌した。蛇足ながら付言すれば千鳥ケ淵戦没者墓苑は日中戦争および太平洋戦争の戦没者の遺骨のうち遺族に引き渡すことができなかった遺骨を安置している。軍人・軍属だけでなく一般人も含んでいる。特定の宗教宗派に属さない施設である。例年、戦没者を慰霊する拝礼式が行われており皇族や内閣総理大臣が参列する。終戦の日(8月15日)には内閣総理大臣が参列するのが恒例となっている。

 墓苑の門口で笛を吹いている女性がいた。吾人の記憶力では曲名までは判然としなかったが戦争を忌避する曲であることは分かった。無礼にもパシャリをしてしまった。無作法をわびたところ快く許してくれた。FB&ブログにアップすることにも快諾をくれた。しかもご丁寧に名刺までも頂いた。了解を得たので「創流 横貫流獅子舞・家元」の横貫多美子さんの名を明かす。彼女は日枝神社や靖国神社などで獅子舞を奉納してきた。ここ千鳥ヶ淵戦没者墓苑でも奉納獅子舞を期している。別れ際に「世界平和のために」といった彼女の言葉が今も耳に残っている。

 千鳥ヶ淵と通りを隔てた向かい側にある靖国神社に足を運んだ。こちらは降り始めた小雨の中でも人の流れは絶えない。境内にあるカフェ・レストランやキッチンカーの灯りが桜の枝を照らして満開を促している。大鳥居から大きな菊の紋が付いた大扉を通り抜け本殿へ。幅広い参道を行く人々はその荘厳な佇まいを歩んだ後で戦禍に斃れた先人たちの御霊に手を合わせるのである。
 
 大村益次郎など戦功のあったとされる武人や軍人さらにはA級戦犯を合祀している靖国神社と名もなき民の魂を悼む千鳥ヶ淵戦没者墓苑とのあり様に思いを巡らす。戦争を遂行した指導者もしくは前戦で指揮した軍人とその命令に従って戦争に加わって命を落とした市井の民との違いを思わざるを得ない。鎮魂の場における双方の参拝人の数には格段の違いがあった。桜に浮かれるなとは言わない。だが、咲いてる桜の色が違うことぐらいは知っておきたい。同じ九段の桜でも千鳥ヶ淵と靖国神社では花びらの色が同じとは思わないで帰路に就いた。