案山子小説(長編)

 隼と山猫(6)

 年が明けて台湾の首都・台北にあるクリーンエネ会社の新規事業計画アドバイザーとして勇人は招かれていた。勇人は退職以前のキャリアの中で台湾を始めシンガポール、マレーシア、インドネシアなどアジアの国を中心としたIT・AI関係企業との交流に一年の半分近くを過ごしてきた。この台湾企業に機密情報を漏洩したとして前の勤務先から馘首という解雇宣告を受けたのだが機密とされた中身は既に公知の知見だったし馘首は私的確執に起因したものに過ぎなかった。勇人は解雇に正当性がないことで会社側を詰問するとともに不当労働行為として労働基準監督署に訴え出る構えをみせた。それを知って会社側は敏感に反応した。あっさりと依願退職に切り替えた。その結果、正当な退職金と併せて精神的痛手を被った慰謝料と根拠のない背任を課せられた名誉棄損としての賠償金という望外の経済的成果を手にしたのであった。これら一連の顛末は勇人の野性即ち隼の眼光が効果を発揮したことにほかならなかった。
 その台湾の企業に勇人は小川某が開発した最先端のAI搭載ロボの効果的運用とそれを活用したクリーン・エネ開発のための情報及びノウハウを提供したのだった。それはその分野で競合していた勇人の元勤務先企業に甚大な不利益をもたらしその経営を圧迫することにもなった。勇人には台湾企業から定期的なコンサルタント料と本格事業化の暁には相当額のコミッションも約束されていた。 
 こうした経緯を経た四月初めだった。勇人と小川某は互いのスキルとパフォーマンスを評価し認め合う意味で千代子の店「灯り」にタイアップの手を結ぶ席を持つことにした。他の客がこない時間をセットした。勇人は胸のポケットから新たな口座のキャッシユカードを取りだすと千代子に手渡した。そのカードで台湾企業から得た勇人のコンサルタント料の全額を今後いつでも引き出せる。そこには今まで続いてきた暗黙の夫婦生活の意味合いが込められていた。だから千代子は殊更に謝意を表す必要はなかった。
 吉祥寺にある「灯り」の客には学生や若いビジネスマンが多い。千代子の相貌はその実年齢よりはやや老けて見えるが実際は二十代半ばで高い鼻梁と大きな瞳の西洋的な面立ちが際立っている。「止り木」の久代との比較でいえば愛嬌に欠けてはいるが久代にはないバタ臭さが独特の美を醸している。体形はスレンダーに類し女性としては長身に属する。そのためか若者たちには近寄り難い雰囲気を与えているのが惜しまれる。そうした彼女のクールなライフスタイルを知ればキャッシュカードに謝意を示さないのは了解できるところなのである。
 勇人はこの夜の席で自分が近くインドネシアに翔ぶ話題を切り出した。目的は洋上風力発電のプラントに関する日本の学術的研究成果の開示とそれに伴う情報やノウハウの提供である。
 インドネシアは東南アジア諸国連合(ASEAN)の盟主であるばかりでなくグローバルサウスと呼ばれる新興国・途上国の中心国に位置している。そのプロジェクトの遂行に小川某の持つAI搭載自律アバター・ロボ及びAI搭載自律ドローンのオペレーションテクニックの提供を求めた。台湾の成功例で小川某が有する即物的先端技術と機器類はIT・AI分野の世界で羽ばたく勇人の挑戦には欠くべからざる必須要件となっていた。小川某は自然言語処理AIで先進の学術論文を読み込んで様々な情報技術や資材の有効な候補物質を探し出す研究も進めてきていた。そうした小川某の研究成果が実践の役に立つことを勇人の野性の感性が直感したのだ。
「どうだろうか。アンタもう一度やらないか。今晩ここで寝てもいいぞ」
 勇人の非情なセリフがカウンター内に置かれたいつものロッキングチェアに身を任せたまま閉じていた千代子の目を開かせた。その視線を勇人と小川某の顔に振り向けてから無言のうち再び閉じた。
「寝るかどうかは別だ。だが、やってもいい。ただ、ひとつ条件がある」
 その時だった。二人の会話を遮って勇人のスマホがメールを着信した。続いてTELの着信音が鳴った。元勤務先の同僚からだった。電話の相手は焦燥に駆られた口吻だった。たった今配信したメール内容について電話でもメールでもいいから返事が欲しいというのだ。
 メールの文面は、勇人の台湾企業への技術移転がすでに公知情報で個人的知的財産だったとしてもその知見を真正面から競合する企業に提供した。その結果としてプラントを先行された痛手は大きく自分たちの会社は深刻な経営難に陥っている。自分たちの会社の怠惰は免れないところだから事の顛末の全てを勇人の責に帰するつもりはない。ただ、勇人の採った行動は余りにも非人情ではないかと難じている。当人は現在閑職に甘んじており妻子を抱え困窮していることをも訴えている。そして、その非人情な勇人の行為は世間の目から見て容認されるものではないと指弾しているのだった。そのくせメールの文末には台湾の企業に自分を紹介斡旋して欲しいとの追伸があった。
 勇人はいま小川某との話の決着をつけなけらばならないのだ。過去より未来が重要なのである。他人を頼るより己が生き様を照射することこそが唯一無二の人生と勇人は信じている。このようなメールに関わっている時ではないのだ。これは同情の余地がない戯言として切り捨てるよりほかはなかった。
「ただいま枢要事項と格闘中。わがほうに何ら落ち度はなく、また、自責の寸毫もない。それと、アンタがたが問題にする世間の目とは一体なんです。普通と様子が変わっていたり言葉使いが不自然だったり目や髪の色が違うだけで幼児や青少年たちを執拗に小突き回してきたのが世間の目なんですよ。アンタの指摘はそんな愚にもつかない世間の目そのものなんです。世間の目を気にして得したことなんか何もない。台湾の件は無理です。了解されたし」
 味も素っ気もない返信を手早く済ますと勇人は苦み切った顔で千代子にバーボンを注ぐよう促した。メールの主からは抗議めいた電話があるかも知れないと思う。二口ほどグラスを舐めて小川某に視線を移す。待ち構えていたらしく飲みかけのグラスをカウンターに音を立てて置いてから小川某は勇人の顔を覗き込むようにして言う。
「条件というのは、借金も返さぬうちのカネの無心だ。さらに三百万円ほど都合できないだろか。もし無理なら百万でもいい」
 半端ではない金額の再度の無心に勇人は少なからず腰が引けた。だが、それはおくびにも出さずに言った。
「なぜ必要かなどヤボは言わない。イエスならネシアの件には乗るのだな。確約するならカネは出す。千代子へ回す分がかなり減るがそれはいいだろう」
 小川某は筋だけをいう。
「使い道をオマエさんも知っていた方がいい。これからもう一機のAI搭載自律アバター・ロボと新たにAI搭載自律ドローンを開発する。このため大学の基金活用申請もしているところだ。これらロボやドローンは恐らくこの国のためにも今後のオマエさんにも役立つはずだ」
 ここまでで今夜の話は決着をみた。メールの主からの電話は勇人の予想に反してなかった。勇人の傍若無人ぶりに呆れて腹も立たなかったらしい。そんな思いを巡らせていた勇人の耳元近く不気味な薄笑いを浮かべて小川某の口が寄ってきた。勇人はギョッとして思わず身を引いた。今までこの男がこれほどの至近距離に近づいたことはなかったからだ。小声が勇人の耳を驚かせた。
「オンナが孕んだらしいぞ。タネは不明だ」
 すぐ隣で眼をギラつかせている厳つい面相の小川某を勇人は言葉もなく凝視するだけだった。勇人が今までの人生でこの時ほど正体不明の鵺のごとき人間を感じたことはなかった。勇人は努めて緩慢な動作でカウンターの内側にいる千代子を窺った。小川某の秘めた言葉はグラスを洗う水音で千代子の耳に届いた気配はない
「それで・・・」
 勇人が次の言葉を促した時にドアが開いて女一人男三人の客が舞い込んできた。一気に店の空気が変わった。たちまちのうちに勇人と小川某の会話を踏み潰すような雑駁な声が飛び交い始めた。それでも小川某は声を落として呟くように言う。
「どっちのタネか本人しか分からない。或いは本人も分からないのかも知れない。互いに身に覚えがあるよな」
 千代子にとっては極めて不謹慎な言葉をこの男はまったくの他人事の如く平然と口にして憚らない。けれど、それは真実かも知れないと勇人も思う。四人の客のカウンターに飲みものを運んでいる千代子の腹部に勇人は目を遣った。変化を見ることはできない。スレンダーなままの腹だった。客の女の声が嬌声に近ずくに従って勇人の神経は尖ってきた。グラスを口に運ぶ頻度が増えた。四人の客の猥雑な会話に怒声をぶつけたい衝動を抑えるのが苦痛だった。そして嬌声の女客の顔を睨めつけているうちに何処かで聞いたことがあるわけ知り顔の男の言を思い出した。「女はいつでも寝ることができるから妊娠は不可抗力ではない。男は寝たくない女とは寝ない権利を有している」つまり男には妊娠させない分別があるのだという。屁理屈に違いないと思う。
 しかし、だとすれば千代子の妊娠は誰も咎めだてすべきことではない。生まれてくるであろう赤子が自分か小川某の子か或いは第三者の子なのかは不明だが千代子の子であることは間違いがない。それは祝福すべきことなのである。いま店内で盛んに聞こえている女客の嬌声もその過程にある前奏曲と思えば腹が立たなくなる。そのイントロダクションを聴いている自分が立腹する権利などはないのである。
 千代子の腹の子の属性がどちらにあるかは別として勇人と小川某の二人は知り合ってから初めて踵を共にして千代子の店「灯り」を出た。それから下北沢にある久代の店「止り木」に足を向けて井ノ頭線の乗客となった。今夜は二人とも「止り木」の二階に泊まり込む腹積りである。勇人は微振動を繰り返す車中でこれから行くあの二階の壁のヌードポスターが久代だったことに気がつかなかった自分の迂闊に腹がたった。四十を超えたかという今でも弾力を失ってはいない肉体だがあの写真に露出された形のよい豊満な乳房はまさに芳紀そのものの象徴といえた。
 いま自分の隣で目を閉じたままで動かない小川某との関係はいつからだろうかと思う。色褪せたセピアカラーのヌードポスターに執着を見せているこの無頼な男は艶やかさを失わないでいる久代にはおよそ似つかわしくない存在と思われるのだった。

 (続く)