案山子小説(長編)

 隼と山猫(4)

 翌朝目を覚ますと隣に久代がまだ眠っていた。勇人は素早く身支度を整えると昨晩に不確かな足どりであがった階段を音をたてず降りた。裏木戸を押し開け路地を抜けて大通りに出た。早暁の刺すような陽光がまだ朦朧とした勇人の眼底を射て痛い。小川某の縄張りから一刻も早く離れることが女の貞操に触れた呵責から己を解放することに繋がる。まだ夜の臭いが残る人影のない幅広の路で夢遊病者のようにふらつきながらタクシーに乗り込んで棲み処のマンションに向かった。
 昨夜、酔いのままに寝込んでしまった深更の夜具に甘酸っぱい臭いを身に纏って久代が滑り込んできたことをその中年の女盛りの躰が教えてくれた。目を開けた勇人の躊躇を見抜いたように暗褐色の夜目が見据えていた。勇人は刹那に言葉を発しようとしたがその間も与えず女は勇人の上に覆いかぶさってきた。久代の激しい息遣いに遭って言葉は不要になった。
 車に揺られながら勇人は昨夜久代が独りごとのように話したことを思い返していた。久代は勇人が小川某に三百万円という大枚を貸す約束をしたのを既に知っていた。そして小川某に惚れてるというのではなくあの男と自分とは同類だから傍にいても煩わしくはないと言った。小川某は頑健で野卑な人相だがその相貌とは異なり実直な性格だとも言った。さらに彼が自分勝手に仕事と称しているAIに関しての頭脳は比類のないほど透徹なのだとも久代は言った。それを証明するのは彼が時折連れてくる知人がいづれも国立を含めた著名大学の教授もしくは勇人のようなIT・AI関係のエキスパートだという。久代の店で群れている他の酔客とは隔絶したハイブローな話題で酒を飲んでいるらしい。
 そんなことをポツリポツリと寝物語のように話した後で終いに久代はこうも言った。
「アンタもアイツと同類の威張りくさった野生なのは初めてこの店に来た時から分かっていたわ。私も女癖の悪い男に噛みついて追い出した我の強い野生のメス猫なんだ。ただ、アイツは山猫だけどアンタはもう少し上品そうに見えるよ。どんな野生動物かしらね」
 そう言ってから愁いを含んだ笑いを残して身繕いを整え勇人を見送った。
 そのことがあってから勇人が久代の店「止り木」に足を向けるのが止んだ。もっぱら競馬場と千代子の店「灯り」通いに終始した。久代の肌の温もりに未練はあるが小川某との遭遇は回避したかった。こちらが債権者だから避ける謂われはないのだが催促がましく現れたと思われのは面白くないのだ。そして何よりも久代に恩着せがましく淫らな含意をチラつかせそうな自分がいるからだった。
「アンタ他所に泊まる場所が増えたんですってね」
 週末のある日、千代子が鼻の先に嘲笑を帯びた皺を寄せて切り出した。あちこちに遊び歩いているのは承知のことだから今さら恨みごとでないのは双方了解済みの口上なのである。
「なぜ知ってる。そうかアイツだな」
「アイツとはだれよ」
「アイツと寝たのか。いつ来たんだヤツは」
「お察しの通りの男だけどアンタがいない時を見計らって来てるよ。喧嘩でもしたの?」
「寝たのかと訊いている」
 怒気を含んだ勇人の詰問だった。千代子の勇人をみる眼が嘲笑から憐れみに変わっていた。口をつぐんだまま勇人を凝視している。他に客がない狭い店内は時間だけが流れた。やがて重苦しい空気を裂いて勇人が呟くように言った。  
「オレが悪かった。だれと寝ようがオマエの勝手だ。それを咎めて言っているんじゃない。ただ、寝たかどうかがオレとアイツとの今後の関係に大きなインパクトを与えることになりそうな気がするから知りたいんだ。どこのだれと寝ようがそれを詮索することの愚はオレもオマエも分ってることだ」
 千代子の顔から侮りの色が消えた。自戒を示して事の真偽を知りたがる勇人の顔を覗き込みながら特徴のある高い鼻梁に皺を寄せていう。
「寝たわよ。素敵な話を聴きながら寝たわ。アイツはアンタ同様にかなり灰汁(あく)の強い生き方をしているわ。アンタのことも話に出たわよ」
 小川某は勇人から多額のカネの引き出しに成功したことを千代子に打ち明けていた。千代子の周りにはほかにも男の匂いがするのを勇人は看取している。鄙(ひな)びた店をやりくりしてきた背景には風采は上がらないが金満なオッサンと千代子が朝を迎える時があったのも知っていた。ただ、それが彼女の全人格を損なうものだとの認識は勇人にはない。千代子もそうした男の匂いを日常に一切引きづってはいなかった。日本の女性には稀なギリシャ風の尖った鼻と人を見据えるような透明な黒い眼が淫らな風聞を払拭していた。
 少ない売り上げの中から千代子が勇人のポケットに小遣いを捻じ込んできたいわれは夫婦でないにも関わらず常から財布が一緒であるところに起因している。それを許容する源には自分も勇人と同類の野生であるとの認識が以前から強く千代子にもあったからである。
 勇人は千代子と小川某との寝物語を聴くうちにあの男、すなわち山猫が自分に対して必ずしも敵対的ではないことを理解した。そこで小川某と自分とが同調でき得る思考回路の解明に努めることにした。一方、千代子は女だけが持つ嗅覚が勇人と小川某との結合の必然を予感していた。そのことは必ずしも勇人にとって不快なことではなかった。なぜなら勇人も小川某も互いに同類であることをある時点を境にして認めていたからだった。
「止り木」の久代からは小川某が夢を貪る獏(バク)のような男という曖昧な情報しか得ていない。ただし、久代には勇人をも同類の獏とみている節がある。そうしてみると二人の女は共に二人の男を通して同類の神経の持ち主ということになる。どこから見ても日本的美人に属する久代と明らかにタイプの違うバタ臭い雰囲気の千代子たちの関係も見えない糸で繋がっている同類なのかもしれないと勇人は思う。自分と小川某それと千代子と久代の四人の間に生じている不可思議な因縁に思い至って勇人は「灯り」の薄暗い隅でバーボンを舐めながらグラスの底に沈殿している己が精神に生じた葛藤と共に時間を過ごしていた。

(続く)