映画「コット、はじまりの夏」 2024(令和6)年1月26日公開 ★★★★☆

(英語、アイルランド語; 字幕翻訳 北村広子)

 

 

1981年のアイルランド


背の高い麦の陰にかくれて

呼ばれてもじっとしている9歳の少女、コット。

子だくさんのママはいつも忙しそう。

赤ちゃんがいるのに、ママのお腹のなかには次の赤ちゃんがいて

牛の出産と重なりそうだと嘆きます。

忙しくて学校に持っていくお弁当もつくってくれないことも。

 

そしてパパはかけ事とお酒が好きで、いつもママともめています。

お姉ちゃんたちも 無口なコットには無関心で

学校の友だちもいないから、コットはいつもひとりきり。

 

ある日、夏休みの間

コットは親戚(ママの従姉)のキンセラ家に預けられることになり、

パパに車で連れて行かれます。

赤ちゃんのときに会ったきりの、しらない家です。

 

 

アイリンおばさんはコットをやさしく出迎え、手をつないで家に案内してくれます。

食堂で軽食をだしてくれますが、パパはお礼もそこそこに帰ってしまいます。

コットの着替えの入ったバッグも渡すことなく・・・

おばさんはコットを風呂にいれ、丁寧に体を洗ってくれ

髪をとかしてきれいにしてくれます。

 

おばさんの家には子どもはいませんが

夜になるとショーンおじさんの友だちがカードをしにやってきてにぎやかです。

 

翌朝、コットはおねしょしてしまいますが、おばさんは怒ることもなく・・・

着替えがないので、タンスから子どもの服をもってきてくれますが

それは男の子のシャツとジーンズでした。

 

翌日から、おばさんが料理や掃除のやり方を教えてくれ

コットも少しずつお手伝いができるようになります。

料理の好きなおばさんの家の台所は、ジャムや保存食がいっぱい。

保冷庫のなかにも食材がたくさん入っています。

 

 

ショーンおじさんとは挨拶をするだけで、話すことはなかったけれど

ある日おばさんが知り合いの家のお手伝いに行っている間

おじさんと牛舎にでかけます。

 

ふっとコットがその場を離れると、おじさんは大きな声でコットを探し回り

「二度と勝手にいなくなるんじゃない!」

と顔を真っ赤にして怒るので

コットは怖くて「ごめんなさい」もいうことができませんでした。

 

コットが男の子の服を着ていることで

おじさんとおばさんが言い合いしているのが聞こえ

町で新しい服を買ってもらうことに。

おじさんはコットに1ポンドのお小遣いもくれました。

 

近所の家でお葬式のあった日、

コットは別の家のおばさんに預かってもらうことになるのですが

おしゃべりなそのおばさんは

「棺が狭い」「ロザリオがお粗末」とか散々文句を言った挙句

買ってもらったばかりのコットの服までけなし、

「でも死んだ子のおさがりよりはマシだね」と。

 

「アイリンは男の子がいたけど死んだんだよ」

「知らなかったのかい?鈍い子だね」

「犬を追って肥溜めに落ちて・・・

アイリンの髪は一晩で真っ白になった」

 

コットがこのことを聞かされたことは

アイリンとショーンも知ることになり・・・

                 (あらすじ とりあえずここまで)

 

 

1月に公開された作品で、「見たい映画」には入れていなかったんですが

なんとなく気になって鑑賞。

チラシには「国際長編映画賞ノミネート」とありましたが、

これ、去年のアカデミー賞で、2年遅れでの公開だったようです。

 

 

アイルランド代表の「クワイエット・ガール」というのがこれみたいです。

ずいぶん邦題で「いじった」感じはありますが、

最後まで見ると、ちょっと納得してしまったな。

 

ジャンルに分けたらハートウォーミングな「泣き映画」に分類されそうですが、

一筋縄ではいかない「深さ」があって、

泣かせ映画の演出にいつも辟易としてる私みたいなへそまがりの心を

大いに揺さぶってくる作品です。

 

あらすじは至ってシンプルで、

学校のないひと夏の間

親戚の家に預けられる9歳の少女のビフォーアフターを描く

ただそれだけの話で、前半はコット目線で書きましたが、

後半はふつうに、一気に最後まで書いてしまいます。

 

一応ネタバレということで・・・・

 

 

「この家に秘密はない」とアイリンは言っていたのに

死んだ男の子がいたこと、

その子のベッドで眠り、その子の服を着せられていたことを知り

ショックを受けたコットをショーンは外に連れ出します。

 

「アイリンに悪気はない。人の長所に目を向ける人なんだ」

沈黙は悪いことじゃない。しゃべらないほうがいいこともある

 

コットはショーンのあとについて、牛舎の仕事を手伝うようになり

門のポストまで走って行って郵便物を取りにいくのも

コットの仕事になりました。

「脚が長いから、走るのも速いな」

ショーンはコットが門まで往復する時間を毎回測って

いつも褒めてくれます。

 

 

ママが弟を出産した手紙が来て、

夏休みもおわりに近づきます。

 

ショーンとアイリンは車にコットを乗せ、家に送っていきます。

久しぶりの家は相変わらず雑然としていて、母は赤ん坊の世話でてんてこ舞い。

「背がのびたわね」

久しぶりの娘の姿に目を細めます。

 

ちょうど帰ってきた父は

「この家出娘め!迷惑かけてきたのか」

と、あいかわらずぞんざいな口調。

やがて二人は車に乗って帰っていきます。

 

突然車のあとを走り出すコット。

ショーンがゲートを閉めようとしているところで追いつきます。

ハグするふたり。

後ろから追って来る父を見つけて

「ダディ」とつぶやき、

自分を抱きしめてくれるショーンに向かって「ダディ」と呼びかけます。

車のなかではアイリンが嗚咽していました。(暗転)

                      (あらすじ ここまで)

 

 

「感動押付」の苦手な人の琴線にもしっかり触れるであろうラスト。

来るときにも一度ゲートを開けるために車を降りるシーンをいれており、

あとは、毎日のように走ってタイムを測っていたシーン、

それらがきっちり伏線となっていました。

 

ただ、「ラストで泣かせる」ためにすべての伏線はここを目指して・・・

というわけでもないのです。

観る人の年齢や男女差、子育て経験などで、

気づいたり見逃したり・・・感動したりそうでもなかったり・・・

って感じの(説明的でない)一瞬のエピソードの宝庫みたいな作品です。

 

誰もが気づくだろうことから書くと、

あの子供部屋の壁紙は汽車の柄で、かわいい盛りの男の子を亡くしたことは

けっこう最初のほうで気づかされます。

50代くらいと思われるショーンとアイリンにとっては

ようやく授かった宝物だったのでしょうね。

 

コットの家の子どもの数は明らかにされませんが、

生まれた子をいれたら5人はいそうです。

 

「貧乏人の子だくさん」って、

映画の中では「幸せの象徴」みたいに描かれることが多いですが

ここでは勝手が違います。

年かさの姉が2人くらい居た気がするんだけど

ふつうなら、忙しい母にかわって

お姉ちゃんたちが赤ん坊の世話をしたり、家事をてつだったりしますよね?

そして9歳のコットも見よう見まねでなにかできそうなものですが、

この両親はなにも教えて来なかったようです。

 

キンセラ家にやってきたときのコットは髪ももじゃもじゃで爪も汚く

服もよごれていましたが、丁寧に愛情込めて世話をしてもらって

ひと夏で見違えるほどきれいな女の子になりました。

「背が伸びたわね」と母は言っていたけど、

光り輝く髪の毛には気づかなかったの?といいたい。

 

母は父ほどクズではないけれど、忙しいのを理由に

ネグレクトしてきたのでしょう。

それは衣食住の世話だけでなく、礼儀作法や家事を「教え込む」ことも含まれます。

キンセラ家では、なにもできなかったコットがお手伝いするうちに

いっぱい褒められてみるみるうちに上達していました。

 

家に帰った時、母が紅茶をいれてくれるんだけど、

テーブルが汚れているのに気づいたコットがちょっと顔をしかめるシーンがありました。

キンセラ家はどこもピカピカだったから、

今までなんとも思わなかったことが気になるよね~(笑)

 

 

細かいことを書きはじめるとキリがないので止めますが、

最初はとっつきにくかったショーンとの距離がどんどん縮まるのが

本作の見どころかも。

(自分の息子のことを思い出して)大声で怒鳴ってしまったショーン。

「怒りすぎたね、ごめんね」のかわりに

お菓子をひとつテーブルの隅に置いていくところもかわいい・・・

 

 

ところで、今までに観たアイルランド映画のなかには

長年にわたるイギリスとの確執が必ず出てきてましたが

本作は、あまり気になりませんでした。

 

ただ、英語とアイルランド語(ゲール語)の両方が使われていて

字幕に差がなかったので、ちゃんと覚えていないのですが

コットの家や学校では英語の割合が多く、

キンセラ家ではすべてアイルランド語だったような気がします。

それから、子だくさんのコットの家は、

きっとカトリックで、避妊も離婚も禁じられているのでしょう。

キンセラ家はプロテスタントなのかもね。

 

コットも(音読は苦手みたいですが)バイリンガルです。それだけで尊敬(笑)

 

このあたりはアイルランドのお国事情が関係しますが

あとは今の日本にも共通することに思えます。

「毒親」とか「親ガチャ」とか、言葉にするとそれまでですが

これについても深く考えさせられました。