映画「ゴッホ 真実の手紙」2010年BBC放送 ★★★★★

 
1888年、ゴーギャンとの不和から自分の左耳を切り落とし
切った耳を馴染みの娼婦に送るという猟奇的なことをやって
病院送りになったヴィンセント・ファン・ゴッホは
唯一の理解者である弟のテオに胸の内をしたためます。
テオからは兄を思いやる返事が・・・・
 
ゴッホの書簡は902通もが現存していて
そのほとんどが弟テオに宛てられたものだといわれます。
本作はその手紙に忠実に、極力脚色を控え、
天才とも変人とも狂人ともいわれるゴッホの真実に迫るドキュメンタリーです。
 
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実は腰から足にかけての強烈な痛みで
今日はほぼ「寝たきり」になってしまいました。
できることないので、スマホを見ていたら
アマプラでこの配信を見つけ
50分という尺にも惹かれて観ることにしました。
今も痛くてたまらないので、
いつもに増して雑な感想でお許しください。
 
 
ゴッホの映画はウィレム・デフォーのとか、油絵調のとか、いくつか見ましたが
本作のことは知りませんでした。
2010年というから、けっこう前ですね。
 
あの「シャーロック」が始まるか始まらないかのころだから
ベネディクト・カンバーバッチも、今ほどメジャーではなかったのかも。
 
 
カンバーバッチとゴッホって、なんかイメージ合わないですが、
エジソンだろうが、ホーキング博士だろうが、アサンジだろうが、チューリングだろうが、
だれでも(特殊メイクなしで)自分に引き寄せちゃう人なので
そこは ぜんぜん心配なし。
 
他の「ゴッホ映画」は、37歳で自殺した彼の最後の何年かに焦点を当てたものがほとんどなので
今回は若い頃からの生い立ちがわかって、非常に勉強になりました。
 
1853年、オランダの牧師の家に生まれた彼は、伯父さんを頼ってグーピル商会で
画商の見習いのようなことをはじめ、その後、4歳下のテオもおなじ道を進みます。
テオはのちに画商として成功するんですが、ゴッホは長続きできず、
父と同じ聖職者を目指すも、なかなか正規の職にはつけず、
教職を志しても上手くいかず。
 
 
ただ、幼いころからきちんと教育は受けてきたようで
ベルギーとかイギリスとかあちこち行って(言葉もマスターしてたようです)
いろんな刺激を受けたり、労働者たちの環境を知ったり。
上の画像はイギリスで集めていたモノクロ版画で、
のちには日本の浮世絵の蒐集家でもあったようです。
 
ビジネスマンや聖職者としての「能力」はあったんでしょうが
きっと人間関係を築くのが絶望的にダメだったんでしょうね。
特に女性関係では、ずっと年上の従姉の未亡人に入れあげて
しつこく結婚を迫ったりして、身内からは総スカン。
 
聖職者の父にとっては「一族の恥」みたいな存在で
テオがいなかったら、野垂れ死の運命だったでしょう。
 
 
1886年(33歳)で行ったパリで
印象派の影響を受けて色彩豊かな絵を書くようになり
アルルで画家を集めて共同生活をしようとしましたが
誰もきてくれず、やっと来てくれたゴーギャンとも喧嘩して
耳切り事件で終焉。
 
 
もうこの時点で、完全に狂った人なんですが、
カンバーバッチのきれいな涙にうるっとしてしまいました。
 
「空気読めずにどんどん距離を狭めてくる人」
ってどの世界にもいますけど、ゴッホのはちょっと異常だとは思いますが、
ゴッホを語るとき、
いろんな『エピソードを羅列して笑い話にされがち』なのは残念です。
 
で、
「天才だけどヤベエやつ」
「ヤベエやつだから、常人には書けないような絵が書ける」
みたいな感じで落とし込まれちゃうことが多いんですが、
ゴッホは早くからあちこちにアンテナ貼って
情報収集完璧の努力家タイプ。
聖職者や教師の勉強もしていたから、インテリだったようです。
 
採用されなかったのは、けっして無能だったわけではなく
誤解をあたえかねない無配慮なふるまいからなんでしょう。
これも病気だとすると、むしろ気の毒なんですが・・・
 
 
 
それでもテオだけは最後まで見放さずに面倒をみてくれたのはなぜ?
晩年(と言っても30代ですが)には、ゴッホの絵は高値で取引されたのかと思ったら
全く評価されなかったらしいです。
テオの写真は何枚も残ってるのに、
兄のは自画像ばかりなんですね。
 
 
兄が自殺したのは1890年、37歳のとき。
そして弟のテオはその半年後にわずか33歳で息をひきとりました。
 
 
兄弟の墓をならべてくれたのも
交わされた書簡を編纂してくれたのもテオの遺族だそうです。合掌。