映画 「キャメラを持った男たちー関東大震災を撮るー」 2023(令和5)年8月26日公開 ★★★★★

 

 

 

関東大震災を撮影したカメラが1台見つかりました。

時間をかけて丁寧にフィルムをセットし、

ぐるぐる手で回しながら撮影します。

 

 

100年前のカメラで撮った令和の風景。

浅草六区から見えるスカイツリー、銀座和光、

日本橋の麒麟像、上野の西郷さん・・・

もわっとしたノスタルジーな画質は、トイカメラみたいです。

 

 

100年前のモノクロ動画に切り替わり

人力車、市電、浅草凌雲閣などが映し出されます。

 

関東大震災を撮った動画はいくつも存在しますが

データとしての信ぴょう性はいろいろで

再三カットや編集を重ねたり、誤ったキャプションをつけられたものも。

 

そのなかで、間違いなく撮影した撮影技師3人の名前が判明しました。

本作ではその3人の若いカメラマンのサイドから

震災の状況を解析することにします。

 

 

岩岡巽(いわおか・たつみ 1893~1955)

当時30歳

 

孫の小宮求茜さん(書道家)は、母親から祖父の岩岡巽の話を聞いていました。

撮影技師というよりすでに会社の経営者だったのですが、

地震の直後にカメラを担いで根岸の自宅を出ています。

ただ、命からがら逃げ惑う人たちから罵倒され

いったん家に戻ると、白い鉢巻を巻いて、再度出なおしたとか。

 

可燃性のフィルムをもって火に向かっていくのは無謀としか思えず

また、続けて3分くらいしか撮影できないため、

ここはあと何分で焼け落ちるかなど

カメラマンには予知能力も必要かも・・・・

 

 

 

高坂利光(こうさか・としみつ 1904~68)

当時19歳

 

息子の定男さんの証言。

高坂利光は17歳で日活向島に入って修業し、

若くして撮影技師になったので、助手の伊佐山さんは年上でした。

自分の知っている父は、根っからの映画人で飲み食いすることが多く

いつも家に誰か連れてきたり、家に居候がいたりするような生活。

ほとんどの映画がまず公開される浅草、凌雲閣は映画人にとっての象徴で

ここの崩落は父にとってどんなにショックなことだったか・・・

 

その日、劇映画を撮影中だった高坂は、伊佐山をつれて浅草をめざし、

撮影を終えると

すぐさま京都へ向かい衣笠で現像、

「関東大震災実況」という11分のフィルムは直ちに劇場公開され

震災の第一報として、大ヒットします。

 

白井茂(しらい・しげる 1899~1984)

当時24歳

 

息子の泰二さんの証言によれば、

彼は仕事で家にいることはほとんどなく

家族への思いは写真にのこすこと、と思っていたようです。

白井は1984年まで存命だったので、本人の肉声が残っていたり

自らのフィルムの整理もできていたようです。

 

 

白井はその日、熊谷で次郎長の映画を撮っていたんですが

急いで東京のシネマ商会に引き返し、助手を伴って飛び出します。

撮影開始は9月2日でしたが、

重い撮影機材をもって道なき道を移動したとは思えないほどのスピード、

驚異的なエネルギーで撮影を続けます。

九段下、日本橋、上野公園、そして最も悲惨だった両国の被服廠跡。

 

撮影されたフィルムは文部省の管轄になり

『関東大震災大火実況』として公開されます。

 

 

 

彼の作品には、小さな暮らしの点描や、逆境のなかの人々の表情を

丹念にとらえられているものが多いです。  (あらすじ とりあえずここまで)

 

 

 

100年前の災害の生々しい動画を 今私たちが見ることができるのは

危険を顧みずに現場でキャメラを回してくれた撮影技師たちがいたからです。

重い機材は長距離の移動を阻み

可燃性の大量のフィルムは、もし燃えたら自分の命も危ないです。

この状況で撮影することが許せない人も多いでしょうから

当然、妨害や暴力を受けることも想定内です。

 

彼らの勇気と使命感に感謝しなければ!

・・・って話だと思って観ていたんですが

感動はむしろ、そのあとでした。

 

当時のフィルムは日本各所にちらばっており、それを回収して

適切な温度湿度を保って劣化しないように保存することも

もちろん大切ですが

100年前のフィルムを1枚ずつチェックして

誰がどこで、いつ、どのような状況でどちらの方向から撮られたものか

撮影の順番はどうだったかなどを解析していく作業があります。

同定作業」というそうです。

 

 

都市史、災害史の研究家の田中傑さんという方が説明してくれるんですが

わたしにはこれが、非常に興味深かったです。

 

 

影や陽のあたる場所から方角や時刻が推定でき

道幅や路面電車の軌道、公衆電話、小学校やお稲荷さん、

文字の読み取れる看板や電柱の広告・・

すべてが手掛かりになります。

 

 

手記などを残していなかった岩岡の足取りも

ここまで明らかになりました。

1日目(青)は被害の酷かった浅草を縦断し

2日目(緑)は上野の高台や跨線橋から撮影していたようです。

 

今だったらスマホの位置情報をONにしておけば

GoogleMapのタイムラインで一発でわかりますけどね。

 

 

「古い写真の撮影場所を特定する作業」

私もこれは大好きなんですけど、

自分が生まれてもいない時代の、しかも大災害のなかでは

めちゃくちゃ難易度高いでしょうね。

住宅地図も火保図もまだない時代です。

 

また、オリジナルのフィルムがそのまま残っていればいいのですが

商業映画としてインパクト高めるために

ちょっと編集をいれたり、あえて違う字幕をいれたりする

可能性だってあります。

(今みたいに加工することは無理でしょうけど)

 

「編集」ではないですが、わかりやすい例でいうと

浅草凌雲閣は震災でぽっきり折れ

残った部分は9月23日にダイナマイトで爆破した

わけですが、そのときの爆破動画を

あたかも震災当日の被害のように使われること

非常に多いです。

 

こういうのも正していかなければね。

 

 

パンフの販売はなかったですが、

右の見開きのチラシはわかりやすかったです。

公式ページからみることができます

      ⇩

 

すばらしいドキュメンタリーでした。★5つ進呈します。