映画「世界一と言われた映画館」 平成31年1月5日公開 

関連本 「世界一の映画館と日本一のフランス料理店を山形県酒田につくった男はなぜ忘れ去られたか」 岡田芳郎 講談社文庫

 
 
この映画を観た人はだれだって、佐藤久一という人物に強い興味を持つと思います。
エンドロールで紹介されたこの本、
映画の公開を機に再販されたと聞いていたのに
今日現在、Amazonなどのサイトでは、旧版がプレミア付きの高値で残っているだけ。
あきらめかけていたら、なんと、図書館でフツーに借りることができました。
 
佐藤久一が晩年2つのフランス料理店に携わっていたことは映画のなかでもいわれていたけれど、
映画館よりこちらのほうがはるかに長かったというのは意外でした。
あの酒田大火の日にはすでに久一は映画館からは手を引き、
フレンチレストラン「ル・ポットフー」の支配人をやっていたのです。
ただ、グリーンハウスを経営していたのは全くの他人というわけでもない、
その辺が説明しづらいのですが・・・・
 
1930(昭和5)年   酒田の資産家の長男として生まれる
               日大芸術学部中退
1950(昭和25)年   映画館「グリーンハウス」支配人となる(20歳)
1964(昭和39)年   上京して日生劇場で勤務 (34歳)
1967(昭和42)年   父の求めで酒田に戻り、フレンチレストランの経営を始める(37歳)
1976(昭和51)年   酒田大火
1997(平成9)年    食道がんで死去(66歳)
 
映画の中で、久一と同年代の人たちは、彼のことばかり話していたのに
30年代生まれの人たちは、全く彼にふれなかった謎が解けました。
もうそのときには彼はグリーンハウスにはいなかったのですから・・・・
 
なんで淀川長治や荻昌弘らが絶賛した映画館を捨てて彼は上京してしまったのか?
たしか、元女性従業員の山崎さんがインタビューのなかで、気になることを言っていました。
 
「わたしが働いたのは1年だけなんだけど、いろんなことのあった1年でした」
「新しいことをどんどん導入して、そして大恋愛もしたんですよね・・・」
大恋愛??
たしか
「夜中の清掃は、久一さんと奥様と従業員が総出で・・・」といっていたから、
奥さんとのなれそめの大恋愛ではないようで・・・なんなんだろう??
と疑問に思いながらも、映画の中ではまったく触れなかったのですが、
この本にはそのへんのこともちゃんと書いてありました。
 
 
   ↑これは昭和38年週刊朝日の10月4日号
 
ここまで絶賛されながら、グリーンハウスを去ったのは、
土門きくという、絶世の美女と出会い、恋に落ちたからで、
彼女との交際は誰もが知るところとなりながらも、酒田では一緒に歩くこともできない。
その窮屈さと、グリーンハウスでできることはやり切った気持ちから、家庭を捨て、
きくを連れて駆け落ち同然で酒田を出て、東京で生活することに。
 
「もうグリーンハウスには満足した。東京では違うことをしたい」
という久一に荻昌弘は、出来たばかりの日生劇場を紹介してくれます。
欧米型の超一流の生の舞台に久一は魅了され、
こんな劇場をぜひ酒田にも・・・と興奮するのですが、
彼の過去の名声がむしろ上司の嫉妬をかうことになって、
食堂部に左遷されてしまいます。
 
ところが、食材の発注や検品などここで与えられた、劇場とは無関係の地味な仕事のなかに
久一は新たなやりがいを見出すのです。
良いものを見分けて仕入れて客によろこんでもらうのは、映画の買い付けと同じ。
調理することはできなくても、舌の肥えた久一はここでも実力を発揮していきます。
 
やがて、父から酒田でレストラン業をしてほしいという申し出を受けて、
映画に携わったのよりはるかに長い人生を
レストラン経営者としてすごすのですね。

この本にはレストランのことのほうに、より頁数を割いていますが、
ここでは映画のことだけを書きます。
 
  客席数を減らしてでも快適さを優先させる
  喫茶を充実させて居心地のよいロビー空間
  作品紹介の機関誌を無料で配る
  女子トイレを清潔にしたり、生花の香りで女性客を呼ぶ
  映画を観なくても利用できるショッピングコーナー
  試写会で実際に見て作品を厳選する
  話題の大作も東京と同時公開
 
こういったことは、今でこそ珍しくないですが、
これを60年前に実現していた彼の先見の明に改めて驚かされました。
こんな冒険ができたのは、彼の家が酒田の名家で、金銭的に余裕があったからでしょうから
経営者として優秀だったかと言えば、ちょっと疑問なんですけどね。
レストランでは食材にお金をかけすぎて、このボンボン流の経営で大損害を与えてしまったとか。
 
酒田大火のあとで、(火元になった責任から)
グリーンハウスの整理余剰金をすべて被災者に分配したというのは父久吉だったそうで、
もうこの時は久一はかかわっていなかったのだけれど、
もし、ずっと続けていたとしても、必ずしも良い結果にならなかったのかもしれない、と思うようになりました。
 
「酒井大火の火元になった」というのは、残念な負の記憶であって、
「世界一の映画館」が忘れられてしまった一番の原因ですが、
なにもかも残らず燃えてしまったが故に、人々の心の中だけに残る伝説のシアターとして
40年たった今、懐かしく甦るのかもしれません。
 
そういえば、84年に火事をだした京橋のフィルムセンター(今の国立映画アーカイブ)の
火災原因はセルロイド製のフィルムの自然発火だったと言われています。
昔の映画のフィルムは可燃性だから、
火事になったら、もうほとんど燃料みたいになってしまうと聞いたことがあります。
 
こんな事故を未然に防ぐために、きっと今はいろんな規制とか届け出とか
規則があるんでしょうね。
なにか新しいことをやろうとしても、そうそう簡単にはできなかったり、
例えばフィルムの保存場所とかまで消防署が指定してきたり、
二階のシネサロンだって今でいったら違法建築かもしれず、
若い久一が頭に浮かんだアイディアを即実行できた「のんびりした良き時代」だったから
彼の力が生きたのかもしれません。(この辺ほとんど想像ですが・・・)
 
 
最後に、映画のところに書き忘れたことを。
「ケルン」の現役バーテンダー、井山計一さんのことですが、
この方は上映前に紹介されたドキュメンタリー映画「YUKIGUNI」の主人公なんですよ。
予告編では寡黙で静謐な職人気質のイメージだったのに、
この映画の中では、人と接するのが大好きな、明るいおしゃべりさんでしたよ!
 
 
こちらも、ポレポレとアップリンクですでに上映中のようです。
 
喫茶「ケルン」はいまもあるので、井山さんに会いに、今度は酒田に行っちゃおうかな?
たしか、「おくりびと」の舞台もここでしたし・・・・