映画「飛べ!ダコタ」 平成25年10月15日公開 ★★★☆☆
原作本 「飛べ!ダコタ 銀翼の渡り鳥」 石坂智惠美 東宝出版

 終戦から5か月後の昭和21年1月14日。
上海から東京へイギリス総領事を送る途中だったイギリス空軍要人機ダコタが悪天候に見舞われ、
新潟県は佐渡島にある高千村の海岸に不時着する。
ダコタは砂に埋もれ、滑走路もないことから乗組員は島にとどまることを強いられる。
敵国であったイギリス軍人を前に、戦争で家族を失った者、
いまだ戦地から戻らぬ息子を待つ者も少なくない住民たちは複雑な感情を抱く。
だが、ダコタの第一発見者である千代子(比嘉愛未)の父で村長の新太郎(柄本明)は、
率先して彼らを温かに迎え入れる。                (シネマ・トゥデイ)

日英交流400年記念映画だそうで、太平洋戦争終結直後に実際に佐渡で起きた実話だそうです。
先日観た「ジョバンニの島」とほぼ同時期ですね。
上海から調布飛行場へ向かう英軍輸送機が、悪天候で佐渡に不時着し、
ちょっと前まで敵国だったイギリス人8人を、佐渡の人たちがどう受け入れたか、って話です。
佐渡に40日滞在するあいだ、佐渡の人たちは暖かな部屋と心づくしの料理でもてなしたそうです。
そればかりか、ダコタを飛ばすために500mの滑走路が必要だと知り、
島民総出の手作業で、石を敷き詰めて作り、無事に飛びたてたというのです。

実話なのに全然有名じゃなくて、ネットではそれ以上の情報なかったです。
数年前に搭乗員の息子が父のお礼のメッセージを伝えに佐渡を訪れ、
この「いい話」が明らかになり、日英交流の絆として使われたのですね。

主役の千代子(本では佐江子)のモデルは87歳の梶井千世子さんという女性.
今もお元気で映画にも協力してくれたとか。
あと10年たってしまったら、戦後生まれの人たちが想像でつくるしかないのですから
ぎりぎりで完成した幸福な作品ですね。

日本人が外国人を受け入れもてなした話で有名なのは「エルトゥールル号遭難事件」
明治時代にトルコの船が和歌山沖で座礁したとき、大島の漁民たちが生存者の救護をしてくれた・・・
この事件をきっかけに今でもトルコは大の親日国といわれます。
詳細は→  こちら 


事実を正確に知りたくて、原作本も読んだのですが、これ、原作というよりは映画のノベライズです。
(そのわりに登場人物の名前や設定がけっこう違っていましたが・・・)
ともかく、ちょっと前まで「鬼畜米英」なんて言っていた相手にやさしくなんてできるのか?
村長でもある千恵子の父がみんなを前にした必死のプレゼンが心にのこります。

「佐渡っていうのは、昔から天子さまや日蓮さま、思想犯やら重罪人も流されてきた」
「みんなひっくるめて受け入れて、この島が成り立ってきたんじゃねぇのかな」
「武器も持ってる英国人を家にあげるのは、俺だって心配だ」
「だけど今あの人たちは困ってる。見ず知らずの島に命がけで着陸して、言葉も通じない、ひもじくて寒くて・・・」
「どうだろう、敵だと思えば腹もたつ。でもあのでっけえのは、遅れてきた渡り鳥だと思えば許せないか?」
「羽を休めて元気になったらまた飛んで行く。
そんなふうに思えないだろうか」

別にこんなに一生懸命説明をしなくても、村長が決断すれば村民は従いそうなものですが、
この時期、敵国の異人を受け入れるのは、やっぱり不安に思う人が多かったのでしょう。

ただ彼らが連れてきた英国総領事をその秘書は陸路で東京に向かったということ。
当然国も県も彼らが佐渡で足止めされていることは分かっているので
村長にも何らかの指示があったでしょうし、滞在費の補てんがあったとしてもおかしくないです。
別に具体的には知りたくもないけれど、まったくスルーというのも気になります。
そんなことをいっては、文部省推奨映画的な感動ドラマが成立しない?

エンドロールでは、モノクロのアーカイブ画像が何枚か映しだされました・
これもその1枚。↓
 
68年前だったら、ここに映っている子どもたちはまだご存命でしょうか。
今のうちにそういう話、たくさん収集しておかなければいけませんね。

本編のなかで使われたエピソード、(盛った部分もあったでしょうが)
心から感動できた部分も少なくなかったです。

○ 実の娘を空襲で亡くし、連合国をどうしても許せなかった消防隊長が考えを変えて村人を集め
ダコタが波にさらわれないように高台に移動することができた。
○ 息子の戦死の知らせを受けた母親が絶望のあまり自殺しようとしますが、英国兵に助けられ、
敵味方関係なく、この兵隊たちを彼らの母親に無事に送り届けるのが自分のすべきことだと悟る。

○ お互いの国の言葉は理解できないのですが、ヒロインはAre you  OK? 程度の英語は使え、
通訳役の教師もごく簡単な英語しかわからないが、それでも意思疎通するには充分で、
ほんとに語学の重要なことを実感しました。
戦時中には英語なんて敵国の言葉を学ぶのは禁止されてた、とおもわれがちですが、
私の母は英語を女学校で習っていたし、伯父も通訳をしてたそうだし、
「必修科目ではないけれど学べた」というのが事実のようです。
今みたいに小学校から必修科目なときよりも、門戸が狭い分、学ぶ喜びも大きかったんだろうな、と思います。
それにしても、毎日のように字幕の洋画を観ているのに、いっこうにヒアリング力が向上しないのはなぜ??

○ 旅立ちの日に「蛍の光」をみんなで歌うと、
「なぜスコットランド民謡を彼らが知っているのだ?」と英兵たちはびっくり。
そして「蛍の光」と「Auld Lang Syne」の合唱となるわけです。
「ジョバンニの島」のときもそうでしたが、一曲の歌をとおして異文化交流ができるのって、なんか感動的ですよね。
ボランティアでもよく歌うのですが、明治時代に西洋文化を普及させるため、
外国民謡に日本語の歌詞をつけさせ、数々の名曲が生まれました。
霞か雲か(ドイツ) 庭の千草(アイルランド) 故郷の空(スコットランド)・・・・などです。
自分たちの国に伝わる古い歌を日本人が日本語で歌えるのって素敵じゃありませんか?
明治時代の歌詞だから少々難しいんですが、今の子どもたちにもぜひ歌えるようにしてほしいな。
小学校での英語教育を義務付けるかわりに、こういう歌を音楽の教科書から排除してしまっては、
外国人と交流できるきっかけを失いそうで、とってもよくないことだと思います。

猪瀬(当時)都知事がこの映画に感銘して
おもてなしは一朝一夕ではつくれない日本文化だよ 」
とつぶやいたと聞きました。
戦争直後に本物の「おもてなしの心」を持っていた佐渡の人たちを誇りに思います。