大変ご無沙汰しております。梶井ゆりゑです。

ブログ内で「勤皇医師・乾十郎の夫婦みち」連載終了後、昨年の東吉野村でのイベント参加くらいしかしておりませなんだ・・・

 

ブログのタイトルにつけたように、私は乾十郎と妻 亥生の物語を書くにあたり、亥生も女性だてらに志士であったと考え人物像を作っていきました。

しかし、ここに来て「果たしてこの考えは正しいのか?」と思うようになったのです。

 

というのも、自身の身に子供を授かり12月のあたまが出産予定日という状態にあります。

先月は地元の安産祈願で名高い寺(尾張徳川藩の崇敬もあつい寺だったとのこと)にて腹帯の祈祷も受けてまいりました。

 

さてここで亥生さんの天誅組への同行です。

天誅組関連の事柄を示す日付は旧暦のため、一転逆賊となって以降~隊の壊滅は現代でいえば10月~11月ですよね・・・山中ということもありますが、きっと今よりも寒さだって厳しかったのではないでしょうか?

そんな状況下に妊婦が同行していて、かつ出産したというのですから・・・

江戸時代の平均身長なども考えれば、亥生さんは156cmの私より更に小柄な女性であったろうとも思います。

既に長男の寿太郎を産んだ経産婦といえど、現代以上にお産は何があるかわからない時代です。

今はマジックテープ止めやスパッツ型の身につけるにも楽な腹帯で多少は身体の状態を楽に保つことが可能ですが、江戸時代はあってサラシを巻くくらいしかなっかたのでは?

足元だって草履か草鞋だったでしょうし、とてもじゃないですが子連れの妊婦が夫が側にいるとはいえ、ついていくのは本当に大変なことです。

 

更に言えば戦況が悪かったですし、五條の時点で病気を抱えていた者もいました。

死人を目の前にしなければならないことも考えられたはずです。

 

実は先月末に母方の伯父(母の姉のご主人)が亡くなり、本来なら親族席につくはずだったのですが祖父母にも伯母にも「妊婦だから通夜や葬儀の場はよくない」と言われ、主人に代わりに行ってもらいました。

ただ伯母や従弟妹のことも気がかりだったので、お悔やみを言いには行かねばと出かけるときに義父に「お腹の赤ちゃんに悪いものが近寄らないように、お腹に外に向かって鏡を入れていきなさい」と言われましたので、腹帯と下着で挟むように手鏡を入れていきました。

 

こうしたことは日本古来よりある「死=穢れ」の考えであり、これから産まれてくる赤ん坊を抱えていた亥生さんだって目の前で縁起でもないことがあるかも・・・と考えなかったはずは無いと思うのです。

 

こうした自分の身体の状態や、妊婦であるがゆえに言われた昔からのならわしから、本当になぜ亥生さんは天誅組に同行したのか、夫の乾十郎も天誅組の隊士達も子連れの妊婦の同行を許したのか・・・と疑問が大きくなりました。

「勤皇医師・乾十郎の夫婦みち」のあとがきに亥生さんの同行理由に、志士としての意地などもあったろうし、情愛や慈悲の気持ちも大きかったのではないか等と書いていたのですが・・・何だかそれだけでは語りきれないような気がします。

 

かつて少し考えたあまり当たって欲しくない事としては、もしもの時の囮り要員だったとか、お腹の子に何かあっても致し方なしという考えだったとか・・・

もしくは逆に、天誅組の隊士達には一発逆転の何かしらの策などがあって、子供と妊婦がいようが大丈夫という気持ちがあったとか・・・

 

何にせよ私の出産に向けての今後の週数が、亥生さんが天誅組に同行し山中で出産に至ったであろう期間と現在の暦で半月からひと月違うくらいなので、追体験というわけではありませんが彼女がなぜこうしたのか自分とお腹の子を通して少し考えてみようと思います。