落ち葉を踏みながら歩く足音と、そのたびに感じる僅かな揺れに亥生は目を開ける。
大きな銃声に撃たれたと思っていたが、どうやら無事で誰かの背にいることが、高い視線からわかった。
「十郎さん!?」
期待を込めつつ呼んだのは、夫の名であったが、耳元でいきなり声をあげられた男は怪訝そうに振り返った。
「残念ながら、十郎さんじゃねえよ。」
紀州藩の陣にやって来ていた彦根藩の男は、意識を取り戻した亥生を背からおろした。
「何がどうなってるのです?私は撃たれたのではないのですか?」
「あんたは傷一つ負っちゃいない。あいつら子供にまで手をかけようとしたからな、脅しで撃ってやったんだ。あいつらは怯んだが、あんたが気絶しちまうとは思わなくてな・・・悪かった。」
「寿太郎と軍次郎は?」
「安心しろ。連れてきてる。」
男が顎で示した側に、紀州藩の若い男二人がそれぞれ寿太郎と軍次郎を連れている。
「はは、うえ・・・もうへいき?どこもいたくない?」
寿太郎が目を潤ませながら、亥生を見つめた。
「あんたが倒れて、死んじまったのかと心配し通しだったぞ。なのに兄貴だからって泣くのも我慢してた・・・女子供に武器を向けた奴らより、よっぽど立派なもんだ。」
彦根藩の男が脇に抱えていた銃を持ち直しながら、寿太郎に目を向けた。
「・・・寿太郎・・・ごめんね、いっぱい心配してくれたのね・・・ごめんね・・・もう少しで、寿太郎と軍次郎を置いていっちゃいそうだったものね。ごめんね・・・」
亥生が寿太郎を抱きしめながら、声を詰まらせる。
謝る言葉ばかり出るのは、これで隊のみんなと共に逝ける、これで置いていかれないという考えが一瞬でもよぎったからでもあった。
「ははうえ、ちゃんとおきてくれたから、いいよ。」
「・・・うん、ありがとうね寿太郎・・・母上、ちゃんとしっかりするから・・・」
亥生はこぼれそうになる涙をぐっとこらえた。
「あの・・・下のお子です。どうも俺らじゃうまく抱けないみたいで・・・あんまり寝てもないです。」
紀州藩の若い男はそっと軍次郎を亥生に預けた。
「ありがとうございます・・・ところで、あなた達は天誅組という隊と私が通じているからと、奉行所にでも連れて行くのですか?」
亥生は自分たちを連れていた三人に尋ねると、彦根藩の男は首を振った。
「いや、俺が勝手にあんたを連れ出した。」
「え?」
「紀州の奴らは、あんたを証人にしようとしていたがな。」
「だったら・・・なぜです?あなたも幕府の軍なのでしょう?」
「奴らのやり方が気に食わなかっただけだ・・・女子供に手をあげるなんてのは、武士の風上にもおけねえだろ。そこの二人だって、そう思ってちび達を連れてきたんだしな。」
「・・・あいつを治してやってくだされた御恩を返したまでです。」
「俺たちは陣に戻りますので・・・たとえ貴女が天誅組の者だろうと、友を助けて頂いたこと・・・感謝しています。」
紀州藩の二人は礼の言葉を残し、足早に来た道を戻っていった。
「運がよかったのでしょうか・・・本当なら、さっき殺されてもおかしくないはずなのに・・・」
「いや、あんたの徳だろう・・・」
亥生の呟きに、彦根藩の男が応えた。
「あんたから見たら、嫌いな幕府の連中だろ?それでもあの若いのを助けてやったんだ・・・だから俺にしろ、さっきの奴らにしろ、あんたを助けようと思ったんだろうな。」
「徳・・・ですか。その徳が・・・みんなにも及べばよかったのに・・・」
紀州藩の陣で、あらかた片付いたという話であった。それは間違いなく、天誅組と言われている隊の壊滅だと亥生はわかっていた。
「なあ・・・あんたは何者だ?何だって、女だてらにこの乱に身を置いた?」
男は亥生に問う。
当たり前のように隊の中にいた亥生は、ついぞ誰にもそんな事を聞かれなかったと思いながらも、男の顔を見返した。
「・・・ただ、大切な人を側で支えていたかった・・・国のためという志の先には、普段の暮らしが待ってるんだってことを、ちゃんとわかっていて欲しかった・・・夫と二人で医者として、みんなのいのちをずっと先へつなげていくつもりだった・・・」
「甘いな。戦に出てくる覚悟じゃねえ。」
男はため息を一つして、銃を指でなぞった。
「・・・だが、悪くはねえ。それで、ちっとは大人しく待ってられればいい女だろうが・・・残念だな、あんた。」
世の女性と自分が違うのは、亥生自身が一番よくわかっている。それでも、夫や隊の仲間と共に歩むことをやめようとは思わなかった。
「いいのです。女といえども、新しい道を一緒に進むことができたことが、私には誇らしい・・・例え・・・みんないなくなってしまったのだとしても・・・」
「恨むか?幕府を、俺達を・・・俺も、あんたの仲間をやった一人だ。」
男の言葉に、亥生は首を横に振った。
「あれだけ、皆を返せと言っていただろう。」
「貴方は・・・よその藩の方も素性のしれない私のことも、助けようとした。そんな徳のある方を恨みなどしません。」
「なら何を恨む?何を恨めば、あんたや天誅組の奴らは救われる?」
男は苦々しく言う。
「何を恨んだところで、何にもなりません・・・何かを恨んで救われたいのは、貴方のほうじゃありませんか?」
男の様子に亥生が問うと、男は一瞬戸惑ってから口を開いた。
「・・・同じ日本人同士で争ってる時じゃねえんだ・・・なのに、誰もそれをわかってねえ・・・天誅組にいた奴らには知った奴もいた・・・そいつらの義だってあってしかるべきと思っていたくせに、俺は奴らに銃を向けた。これで良かったのかと、ここの所ずっと考えていた・・・恨まれて楽になれるってもんじゃないだろうけどな。」
何が悪かったのかなどと、今となっては誰にもわからない。
世の暮らしを脅かした幕府が悪かったのか、勇み足に動き出した者達が悪かったのか、はたまた別の何かがあったのか。
それでも、多くを失くした亥生に今思えるのは何が悪いなどという考えでは無かった。
「人が人を殺すなんて、誰も望んではいませんでした・・・ただ少しでも、普通に近しい人たちと一緒に過ごしていたかったから、新しい世を願っただけだったのに・・・」
男は胸元を握りしめ、亥生たち親子を見つめる。
「そうだな・・・誰だって、普通に暮らしてたかっただろうよ・・・せめて死んでからくらい、あいつらが心やすまるように弔うつもりだ。それで俺が許されるとは思わないが・・・あんたはどうする?俺はもうこのまま山をおりるが・・・」
「私は、みんなを探します。まだ誰かいるかもしれませんし、夫も心配ですから。」
亥生が微笑むと、男も頷いた。
「そうか・・・山の中で幕府軍に会ったらこれを渡せ。」
男は懐から文を取り出した。
「これは?」
「あんたの身元を保証するといった事を書いておいた。もしもの時に使えばいい・・・けど、本当に受け入れがたいことばかりだぞ。それでも行くか?」
「ええ。みんなの志の行き着いたところを見なければ、私も先へ生きていけませんから・・・何があっても受け止めます。」
亥生は差し出された文をしっかりと受け取った。
「俺も、奴らの義を無駄にしない・・・世はここから変わる。少しでも、奴らの義に恥じないような世に幕府はしていく・・・それが、ここからの俺達の役目だろうからな。」
男は遠くの空を見上げ、歩き出した。
「それじゃあな。」
「ええ、ありがとうございました・・・」
「ちび達大事にしろよ。少しでも、そいつらにとって良い世を作ってくからよ。」
「・・・はい。」
銃を担いだ背中が遠ざかるのを、寿太郎は手を振って、亥生は複雑な気持ちで見送った。
山の中の戦から取り残された者の想いは、様々なのであった。
②へ続く