亥生は穏やかな表情の雁音を見つめながら、伝えるべきことを言うか迷った。

兄と弟がいる幸せな暮らしは、本来なら手放しで喜んでいい暮らしだ。けれども、目の前の少女は本当にそれを望んではいないだろうと知っている。


「雁音ちゃん。」

「はい?」

「もう私は安静にしていればいいから、皆を追いかけなさい。」

亥生の言葉に雁音は目を丸くして見つめ返した。

「え・・・」

「まだ、そんなに遠くまでは行ってないでしょうから。」

「亥生さんも、寿太郎も、軍次郎も置いて!?出来るわけないじゃないですか!」

「いいの。奎堂さんの側に行ってあげて?」

「・・・行けるわけない。あいつは私が必要ないから、ここへ置いていったんです・・・」

本当は駆け出していきたいだろうに、男が片意地を張っていれば、女もそうなってしまうらしい。

きちんと想いをつき合わせてこなかった二人らしいといえば、らしいことだ。

「奎堂さんは・・・あと少しで右の目も見えなくなる。誰かが近くにいなきゃ、こんな山の中を進むことなんて難しいのに、最後の最後で雁音ちゃんをまもろうとしてるの・・・」

「嘘だ・・・あいつが私をまもろうとするなんて、ありえない。」

「雁音ちゃんを置いていくと決めた奎堂さんに聞いたの。私の側にいれば、いざという時にも助かることができるからなの?ってね・・・そしたら「そんな所だ」って、「あいつを頼む」って小さく言ってた。」

「そんな、ばかな・・・」

「本当、男って馬鹿よね・・・ちゃんと言わなきゃわからないことを、言わなくても相手はわかってるって思うんだもの。大した自信よ。」

やれやれといった体で亥生がため息をついてみせると、雁音の表情が変わった。

「松本・・・」

「本当は、総裁の奎堂さんの頼みを聞くべきとは思うけど・・・嫌でしょう?大切な人がどうなったかわからないまま生きていくなんて。」

「・・・やだ。」

「だったら、行きなさい。行って文句の五つや六つ言えばいいでしょ?」

亥生が肩をたたくと、雁音がぷっと吹き出した。

「五つ六つは多くありませんか?」

「あら、そんぐらいありそうじゃない?」

「・・・ですね。」

「そうだ・・・私の薬箱持ってきてくれない?」

思い出したように亥生が言い、雁音がまとめ置いていた荷物の所から薬箱を渡した。

「これを持って行きなさい。」

薬箱に入っているには似つかわしくない、ころんとした小さな鞠のような器を取り出した。

「なんですか?」

「軟膏よ・・・作るときに松の実を加えているから、塗れば松の匂いがするの。目が見えなくなったら、音や匂いを頼りにしなければならないから・・・これを塗っていれば奎堂さんも、あなたがどこにいるかわかるでしょう?」

「松の匂い・・・」

「本当は匂い袋なんかにしたかったけど、この戦いが終わるまでは剣士なんだものね。奎堂さんも怪我をしたりしてたら使えばいいわ。」

「ありがとうございます・・・亥生さんには貰ってばかりですね。」

小さな器を受け取り、雁音は眉尻を下げた。

「いいのよ。帰ってきたら、たっぷり親孝行してもらうから。」

「・・・そうですね。母上、寿太郎兄上、軍次郎・・・いってきます。」

雁音の目が穏やかな娘の目から、前を見据える剣士の目になった。

「ええ・・・大切な人をまもって、元気に帰ってらっしゃい。待ってるから・・・どうか、武運を。」

「はい。寿太郎兄上、母上と軍次郎をお願いします。」

「うん、きをつけてね、いってらっしゃい。」

「いってきます!」

ぎゅっと脇差を確かめるように握り締め、雁音は笑顔で飛び出していった。




身軽な足音はあっという間に遠ざかっていく。

あの足音が帰ってくることは、きっとない・・・それでも、送り出さなければならなかった。

己にかけられた愛おしむ想いを知らないままに、娘には育って欲しくなかった・・・自分の想いに蓋をしたまま生きる娘を見守るのは、母としてよりも、愛する者がいる女としてやるせなかった。


光を失いかけた彼の人を、出て行く時に見せたあの笑顔がきっと照らすだろうと信じるしかない。


そんなことを、涙の滲む視界で亥生はぼんやりと考えていた。




②へ続く