十郎達が十津川を出たあと、亥生のためにと主計が声をかけた村人により産所の支度がすすめられた。
子を産むためにはまだ弱い痛みに唸りながら横になっている亥生の傍らには、寿太郎と雁音が不安げな表情で座っていた。
「ははうえ、寿太郎が、ちちうえのかわりにいるよ。だいじょうぶ?」
「ええ・・・ありがとうね、寿太郎おにいちゃんに、赤ちゃんも早く会いたいって・・・もう少し待ってね。」
「うん・・・」
「すいません・・・私が松本を止めていられれば、乾さんが側にいてくれたでしょうに・・・」
ぎゅっと雁音が拳を握った。本当なら、奎堂の側についているべきはずの自分が置いていかれた悔しさが顔に浮かんでいた。
「いいのよ。考えれば、十郎さん・・・寿太郎が産まれた時もおろおろするばっかでね、産婆さんにも邪魔って叱られたくらいだもの・・・皆の治療にあたってたほうがよっぽどいいわ。」
「でも・・・私みたいな奴が・・・赤ん坊をとりあげるの、お二人にも、お子にも悪いですし・・・ひゃ」
すっかり気持ちが後ろ向きの雁音の頬を、亥生が両手で挟み眉間に皺を寄せながら見つめた。
「悪いわけないでしょう!雁音ちゃんは、どうしてそんなに自分を認めたり許したりできないの・・・」
「だって!だって、私・・・人を斬ったことがある。人を殺したことがある・・・亥生さんみたいに、好きな人の側に生きられて、そのお子を産めるなんて・・・眩しい生き方は私と正反対なんだ!」
「・・・眩しい生き方・・・そう、見えるの?」
「私の手は・・・何度も血で汚してきた手だから、赤ん坊をとりあげるなんて・・・怖いんです。」
頷いたまま、顔をあげない雁音を亥生はそっと撫でた。
「私も・・・命を殺したことがある・・・」
亥生の告白に雁音がはっと顔をあげた。
「中条流まがいのことをせざるを得ない時があって、産まれてもいない命を殺したの・・・命を大事って言ってる医者のくせにね・・・そんな女が、子を産んでいいものかと思ってしまうことだってあった。」
「でも・・・仕方なかったことなのでしょう?私とは違う・・・」
「誰だって生きていれば一つや二つ業を抱えてるってこと。血で汚れてる?それが何?誰だって母親の血をあびて産まれてくるものなの・・・私には、雁音ちゃんの手は大切な人を懸命にまもってきた、優しく綺麗な手にしか見えないもの。」
亥生は握ったままの雁音の手をとり、熱を帯びた掌に包み込む。
「・・・どうして、そんなに優しくしてくれるんですか・・・」
「だって、あなたが大好きだもの。時々すごくもどかしくなっちゃうけど、可愛くて仕方ないの・・・」
「寿太郎も、雁音のお姉ちゃんすきだよ!」
寿太郎も泣き出しそうな表情の雁音に言い聞かせるように、その顔を覗き込んだ。
「私も・・・亥生さんも、寿太郎もすき・・・です。だから、余計にお産を手伝っていいのか不安になる・・・」
「もう・・・私も寿太郎もちっとも不安じゃないのに・・・いっそうちの子だったら、お姉ちゃんなんだから手伝ってっていえるのだけどねぇ。」
「また亥生さんは・・・無茶をおっしゃいますね。」
雁音が苦笑いしたところで、亥生がはっとした。
「そうだ、それ!うちの子になっちゃいなさいよ!」
「え!?」
「だって、この戦いが終われば中山様や奎堂さん達は国のお偉方にでもなるだろうし、雁音ちゃんは剣士でなくて普通の女の子になれるでしょ?稼ぎの少ない時は苦労をかけるかもしれないけど、お嫁入りの時は私も着た白無垢も着せてあげる。」
「ちょっと、いきなり何を・・・」
「嫌?私も十郎さんも女の子も欲しかったし、寿太郎もお腹の子も家族が多い方がきっと楽しいはずよ。ね、どう?この子たちのお姉ちゃんになってやってくれない?」
「母上、雁音のお姉ちゃんがほんとの寿太郎のお姉ちゃんになってくれるの?」
「母上はそうなったらいいなって思うんだけど・・・」
じっと期待をこめた目に見つめられ雁音は逡巡した。
「・・・寿太郎の姉上にはなってやれない。」
雁音の答えに寿太郎も亥生も肩を落とす。
「だって・・・私より先に寿太郎のが亥生さん達のお子ですから・・・寿太郎は兄上でしょう?」
くすりと微笑んだ雁音に、寿太郎はまだよくわからないという顔をしたが、亥生の表情は明るくなった。
「え、いいの?本当に?」
「ええ・・・お二人の子で、寿太郎の妹として生きていければ・・・万吉もきっと安心してくれます。寿太郎兄上、これからよろしくお願いします。」
雁音に頭をさげられ、寿太郎は目を瞬かせてから首をかしげた。
「お姉ちゃんなのに寿太郎のいもうとなの?」
「おかしいか?でも、私はできるなら兄上がいるおうちがいいなと思うんだ・・・」
「ううん。じゃあ、寿太郎が兄上だから雁音のお姉ちゃんもまもってあげる!父上とやくそくしたもん!」
「ああ・・・こんなに強くて格好いい兄上がいて嬉しいな。」
ここまで張り詰めていた何かが吹っ切れたように、雁音がにこりと笑った。
痛みの波が激しくなりはじめた亥生は、梁にかけられた綱を握り締めながら何度も身体に力を入れる。
その度に軋む梁を見て、雁音は亥生のどこにこんな力があったのかと思いながら、苦しそうな亥生の身体をさすっていた。
「母上、いたい?」
「すっごい痛い!あほみたいに痛い!」
寿太郎の心配そうな声に亥生は気遣える余裕もなく、しきりに痛い無理やだなどの言葉を繰り返し続けていた。
「亥生さん、じゃなかった・・・母上、汗が目に入りますから・・・ちょっと拭きますよ。」
「あ、あり、がと」
「なんとなくですけど、あと三、四回踏ん張れば産まれそうじゃないですか?」
「だと、おもう・・・けど、も、ね痛すぎて痛すぎて・・・いきむにいきめない・・・も、痛みを超えたなにかってくらい。」
「ちょっと休みます?」
「ここで、やすんだら、もっと痛いことになるから、今の・・・痛みのうちに、産まないと・・・あ、いっそ、雁音ちゃん、お腹切って出してくれる?」
「何言ってるんですか!?」
「いえね、いまなら・・・下が痛すぎるから、ちょっと切られるくらい、どってことない気がする。」
「どうってことあります!切って出してからどうする気ですか!」
「私だって医者よ!傷を縫えば何の問題もないじゃない!」
あまりの痛みからなのか、亥生の目が据わっていた。
「赤ちゃん、いいこいいこ。母上がいたいんだって、あんまりいたくしないであげて?兄上とお姉ちゃんもいるから、たのしいよ。はやくおいで?」
寿太郎が小さな手で亥生の腹を撫でると、気が立っていた亥生も落ち着きを取り戻した。
「そうね・・・寿太郎、ずっと赤ちゃん楽しみにしてたものね、母上がんばるからね。雁音ちゃん、一気にいきむから赤ん坊出てきたらお願いね。」
「は、はい!」
朦朧としそうな意識の中で、亥生は赤ん坊の泣き声を聞いた。掌の皮がすりむけるほどに握っていた綱を手放し、疲労感だらけの身体を落ち着かせるように、背をもたれかけさせた。
「母上、もうだいじょうぶ?いたくない?」
「ええ・・・寿太郎、もう大丈夫。」
「赤ちゃん、まっかでふやふやしてた!でね、ちっちゃくてかわいいね。」
寿太郎が興奮気味に亥生に話しかけていると、産湯につからせてやった雁音が二人の側にやってきた。
「産まれましたよ、お疲れ様です・・・かわいい男の子です。」
そっと亥生の腕に赤ん坊が移される。
「ほんとう・・・父上に似てるわね・・・」
「そうですか?やわらかそうな髪と口元は母上似ですよ。」
穏やかな手つきで雁音は赤ん坊を撫でていた。
「おとうとか・・・よろしくな。」
「ねえ雁音ちゃん、この子に名前をつけてあげてくれる?」
「え、私が・・・そんな・・・」
「だって、雁音ちゃんも家族なんだもの・・・その証といったら変かもしれないけど、ね?」
亥生の申し出に、雁音はそわそわとしながら赤ん坊の顔を見た。
「いいの・・・ですか?」
「もちろん。」
「・・・寿太郎の次の子だから・・・寿次郎・・・とか?」
「うーん・・・寿太郎が「こと」とか「ことちゃん」って呼ばれることもあるから・・・それはちょっと間際らしいかも。」
「それじゃあ・・・長月の生まれで長次郎・・・菊の御旗にちなんで菊次郎とか・・・何か違うな・・・行軍のなかにあっても生まれたから軍次郎とか・・・」
考える時の癖なのか、口元に指をやって雁音は名前を口にしていた。
「軍次郎・・・いいんじゃないかしら。軍次郎、姉上がいい名前をくれましたよ。」
「え、いいんですか?もっと考えた方が・・・」
「うん、いいの。この子の名前を呼ぶたびに、私達は新しい世のためのこの戦いを、平和に暮らしていてもきっと忘れない。国のために散っていった人の事も、生き抜いた人の事も・・・そうして、この子も、軍次郎も皆の志を受け継いでいってくれるようになったらいいと思うの。」
「そうですか・・・軍次郎、私の考えた名前で構わないか?」
雁音の声にぱたぱたと小さな手を動かす弟に、寿太郎が満足そうに頷いた。
「軍次郎、嬉しいって!」
「ほんとう?寿太郎兄上?」
「うん!兄上だから、うそいわないよ!」
ちぐはぐな兄妹のやり取りに、亥生は目を細めた。
第15章へ続く