夜があけ、忠光公自ら隊の十津川からの退却が告げられた。

十津川の者達は朝廷からの触書の件もあり、ここで袂を分かつことになる。


忠光公は古参の仲間と共に、幕府との戦いのために南下していくのを決めていて、十郎がそれに付き従うので、亥生も隊と命運をともにする気でいた。

しかし、ここ二日ほど亥生は嫌な痛みを抱えている。

気のせいだと、極限の状況や医師としての力不足を感じての胃痛だと、自分に言い聞かせながら痛みを誤魔化してきた。


まだ今日は一度も痛みなどない、やっぱり気落ちしていたことからくる胃痛だったんだと、支度を終えた隊士達を見て、自分の持ち運んでいる薬箱を背負おうと身をかがめる。

十郎の持つ薬箱よりは幾分か小さなそれを持ち上げた瞬間、ぱしゃりと水たまりを跳ねたような音が響いた。

他の者がその音を聞いている様子はなく、どうやら亥生の頭の中にだけ鳴った音だったらしい。

脚を伝う生暖かい熱は、亥生には五年前に覚えのあるものだった。

「母上!」

下半身全体が痛みの塊になったようで、立っていることも出来ない亥生がずるずると座り込むと、寿太郎が声をあげ、息子の声に三総裁と話をしていた十郎も飛んでくる。

「どうした亥生、大丈夫か?まさか・・・」

「ええ・・・神功皇后さま、みたいには・・・いき、ませんね・・・」

ぞろぞろと隊士も心配そうに亥生の側に集まった。

「おい、神功皇后みたいいかんて・・・もう産まれてまうってことか?」

恐る恐る訊ねる奎堂に、痛みで答えられない亥生に代わり十郎が頷いた。

男達は騒然となる。

産気づいてしまった亥生は十津川に残すより他ないが、十郎を隊に付き添わせていいものだろうかと戸惑った。

志と十郎への想いで隊と共に過ごしていた亥生は、隊士達がそのように人を思い遣ることをわかっていた。

「十郎さん・・・私は大丈夫、だから、皆さんと・・・先へすすんで、ください・・・」

「何言ってるんだ!」

「そうや。軍医のお主達は幕府にそう追われまい・・・大将の私が許す。乾はここに残そう。」

「だめ、ですよ。中山さま・・・医療に従事する、者がいなくては・・・隊が、こまります。」

話の最中にも、容赦なく亥生には痛みの波が襲う。暴力的な痛みに、十郎の手を握りながら声をあげる。

「も、や・・・痛い痛い痛い、いったい!」

「亥生殿、ちっくと落ち着きゃあ・・・そがなぁ痛いがか?麻酔なしで鉄砲玉出したり、脚縫ったりしたんよりマシじゃろうて。」

亥生を落ち着かせようとした虎太郎だったが、その一言は気が立っている亥生には余計な一言だった。

「はぁ!?手に収まるちゃちな鉄砲玉と赤ん坊一緒にすんやないわ!人間一人を自分の股から出さないかんのよ!?こっちのがマシ言うなら、いっぺん自分の腹で赤ん坊育てて産んでみなさいよ!」

目が血走らんばかりの亥生に、虎太郎は唖然として何も答えられなかった。

十郎が腰をさすってやりながら、穏やかに話しかける。

「ほら亥生、落ち着いて。痛いよな、大きな声出して痛みが楽になったなら、一度ゆっくり息を吸ってごらん?」

すーっと深く息を吸った亥生を撫でながら十郎がその様子を確認する。

「うん、上手。それじゃ、今度ゆーっくり息を吐いて。」

「・・・・あ、少しおさまった・・・ごめんなさい、虎太郎さん、言葉が過ぎました。」

「いんや、産気づいとる母親が気が立っとるのは当然じゃき、俺が悪いんじゃ。それにしても、いつも元気な亥生殿がこげなぁなるくらい、子ぉ産むっちゅうんは大変なんじゃのぉ。」

「そ、ね。この痛みは殿方はとても耐えられないそうだから・・・」

奎堂の傍らで心配そうな顔の雁音が亥生の隣にかがんだ。

「そんなにも痛いのに、産むのですか?」

「ええ、当然よ。だって愛した人との子で、この身に授かる前から会いたくてたまらなかった子だもの・・・こんな痛み平気なの・・・平気だから、だから、皆は先へ行ってちょうだい?」

「こんなに苦しそうな亥生さんを、置いていけるわけないじゃないですか!」

「ここで、まごまごしてたら、幕府の軍に、捕まってしまうでしょ・・・」

「亥生・・・」

「やだ、十郎さん、そんな顔しないで・・・本当に私は平気。子を産むのは、命の自然な流れです・・・けど、命を救うのは人の手が、いる、こと・・・だから、十郎さんは、皆さんと、行かないと・・・」

「そんな事言っても・・・」

「私達の子だもの、きっと頑張って産まれてきます・・・それに、ここで、隊を離れたら、十郎さん、きっと後悔する。」

亥生が微笑むと、見かねて奎堂が話しかけた。

「おい、本当に十郎がおらんでもええんだな?」

「ええ・・・」

「わかった。ほいじゃあ、十郎はこのまま俺らに同行させる。」

「松本!そんなの亥生さんの本心じゃないに決まってるだろ!」

「ありがとう、万吉くん・・・本当に、大丈夫だから。」

「実際、ここでうだうだしとれんだら。お前は十津川の奴らに、どっか赤ん坊産んでもええって所が無えか聞いてこい。」

「話を勝手に終わらすな!」

「こんな外で産ませられんだろ、早よせろ。」

渋々といった態度で、雁音は亥生の側を離れた。



「十郎の代わりにもならんかもしれんが、村上を置いていく。あんたも知った奴が側におる方が安心だら?」

「え・・・」

「十郎も、嫁と子だけ置いてくこと思えばええんだねえか?」

奎堂の言葉に古参の仲間がざわついた。

「奎堂殿、本気にござるか!?」

「ああ。」

「おまん、そりゃあ・・・ここまでついてきたアイツが可哀想ぜよ。」

「吉村の言う通りや・・・お主たちは、ここで離れていいとは思えぬ・・・本当にそれで良いのか?」

「今の松本君には、あの子の力が必要なのは明らかじゃありませんか・・・」

「いいんだ。あいつは・・・万吉だ無え・・・この義挙についてきたのは、村上万吉だろ・・・あいつだない。いいかげん、返してやらんとだでな・・・」

それは、万吉の身代わりから雁音に戻してやることを言っているのか、はたまた別の深い意味があるのか、亥生はわかりかねた。

「け、い、どう、さん・・・」

痛みから弱々しくなる声で奎堂を呼んだ。

「何だ?」

話をしようとするも、痛みにうまく話せない亥生が口を動かすので、聞こえるように奎堂は耳を寄せた。

「ああ・・・そんな所だ。」

亥生の声に奎堂が頷くと、家を産所に貸してくれる家があったと雁音が戻ってきた。


「亥生さん、歩けますか?」

「ええ・・・ちょっと痛みがおさまったから。」

「探してもらってありがとう。どこかな?」

「ご案内しますので、こっちです。」

十郎に支えられながら、亥生はよろよろと世話になる家に向かった。傍らでは、寿太郎も心配そうに亥生を見上げている。

隊士達も、揃って移動した。


「本当に良いのやな?」

痛みが落ち着いたことで、ひとまず寝かされた亥生に忠光公が話しかける。

「ええ・・・母は強しと言いますでしょう。大丈夫ですから・・・」

「せやな。そなたほど強く優しい母君を私は見たことがない・・・」

「ふふっ・・・大将の中山様にそう言っていただくなど、名誉なことにございます。」

「大将など・・・もうそない大それた者やない。」

「いえ、周りが何を言おうと、私達が掲げた大将は、貴方様です・・・どうか、何が何でも、生き延びてください。」

「わかった・・・そなたも、良い子を産め・・・子は国の宝や。乾とそなたの子なら兄と共に国を背負って立つ立派な子やろうな。」

生き延びられる可能性をわからぬまま、忠光公は頷いた。

「たから・・・なら、中山様も、皆さんもですよ。この子が産まれそうな今、私は一層思うのです・・・」

産まれるのを待つばかりに脈打つ腹を撫でながら、亥生が隊士達を見遣った。

「この子は、今・・・私の身体の中で、私の命で生きています・・・でも、産まれたとたん、自分の命で息をして見て、聞いて、触れて・・・この子自身の命で生きていくようになる・・・生きていく道も、志も、何だって子のものだけど・・・人生のほんの少しでも、命を一緒にしていたのだもの・・・子は、母の宝・・・むしろ命そのものなんです。だから、お願いです・・・中山様も、皆さんも、たとえ恥でも、格好がつかなくとも・・・自分を待つ母がいるのなら、帰ってあげてください・・・」

ぽろぽろと涙を流す亥生の母としての想いに、隊士達も自らの母を思う。

「せやなぁ・・・私は逃げの道やと弱気になっていたようや。十津川から進めるは、国のための働きをするために探す道ぞ。探して、まずは皆とここへ戻ってこよう・・・乾をのぞき、隊の皆の母も同然のそなたの所にな。」

忠光公のその言葉に続き、隊士たちが次々に亥生へ言葉をかける。

その言葉は、亥生を通して見る母への別れの言葉のようでもあったが、皆努めて明るく振る舞った。

奎堂だけは、亥生に声をかけることなく、傍らの雁音の肩を叩いた。

「こんだけ全員がここに戻ってくる言っとるだで、さっき話した通り、ここに残るな?」

「・・・わかった。乾さん以外で亥生さんのお産を手伝えるのは、私ぐらいだしな。」

諦めたように雁音が頷いた。


「皆さん・・・くれぐれも、無理をしないでくださいね・・・それと、十郎さんを、主人を・・・よろしく、お願いします。」

また少しずつ痛みに襲われながらも、亥生は起き上がり、深く頭を下げた。

「わかった。十郎、俺らは外で待っとる。ここを出る前に話してえこともあんだら?」

奎堂が踵を返すと、他の隊士も気を使って外に出て行った。



「行ってくる・・・子ども達の事は頼んだ。」

「ええ・・・」

「行かないでと、すがりはしないんだな・・・」

「だって、そうしたら、皆さんが・・・困ることに、なるって、わかるもの。」

「寿太郎、あと少しで弟か妹が産まれる・・・父上がいなくても・・・兄上を頑張れるか?」

「・・・がんばるから、父上かえってきたら、いっぱいいい子いい子してくれる?」

「ああ・・・今だって寿太郎はいい子だろ・・・父上の一番の自慢なんだ。」

十郎が寿太郎を撫で、そのまま強く抱きしめた。

例え、この先に何が起きても、我が子の暖かなぬくもりを忘れずいられるよう、しっかりと腕をまわす。

「十郎さん、皆さんのことにかまけて、自分のこと疎かにしちゃ、だめ、ですよ?」

「こんな時にまで、お小言?」

「だって・・・十郎さん、集中したら、ご飯も忘れちゃうもの・・・全く、寿太郎以上に手がかかるんだから・・・」

「そんな男に惚れて、こんな所まで来た亥生だって相当じゃないか・・・」

「そう言われれば、そう、ですね・・・お互いさまね。だから・・・帰ってきてね・・・元気な子を産んでみせるから、よくやったって・・・よく元気に産まれてきたって、私と、この子のことも、寿太郎と同じくらい、褒めてくださいね?」

「ああ。」

「あまり、のんびりしてる暇は、もう・・・ないですね・・・どうぞ、皆さんと行ってください。」

「わかった。それじゃあ・・・」


「行かないで」「側にいて」言ってはいけない言葉を亥生は飲み込んで、十郎の背を見送る。

本当は、身体が痛くて痛くて、抱きしめてやわらげて欲しい・・・けれど、それを抱きしめてもらった最後の記憶にしなければいけないかもしれないのは、怖すぎる。

死を覚悟して抱きしめる腕なんて、嫌・・・だから、帰ってきたら、いつもの暖かな笑顔で抱きしめてくれると信じて待っているから・・・皆で揃って、帰ってくると、その言葉を信じさせてください。


亥生の目から溢れる涙は、身体を裂くような痛みもあるが、心を裂く痛みの方が大きかった。




③へ続く