「弥四郎君、このことを知ってるのはここに居る人だけか?」
少し気持ちの落ち着いた様子の寿太郎の背に手をやったまま十郎が弥四郎に問う。
「いえ、忠光公も鉄石殿も存じてござる。それから三弥殿はじめ、三河の古株の仲間内は知っておりまする。」
「あ!俺と同郷の那須も、京で万吉にも雁音にも会っとるから知っちゅうな・・・」
「そうか・・・水郡さん、亥生を呼んできてください。もしもの時のために知らせておかなければならないと思います。」
十郎の言葉に、一瞬雁音はうろたえた。
「これは私の勝手です!亥生さんを巻き込むなんて納得いかない・・・」
「ここからどうなるかわからない。たとえ優れた剣士といえど、負傷することもあるかもしれない。着物を脱がねば手当できなかった時に、事情を知らない者に女と知られたらどうするんだ?」
不服そうな表情の雁音に十郎が聞くと、戸惑いつつも開き直る。
「軍令に女にはみだりに手を出してはならぬとあるのです。私の素性を疑われようと、どうってことありません。」
「ああそうか。なら、総裁の松本奎堂は女に性別を偽らせて側にはべらせている愚か者だの、村上万吉は色小姓だのなどと言われても構わないということだね。」
十郎の冷たい物の言い方に、弥四郎が物を言いたげに腰を上げたのを虎太郎が制した。
「よく考えなさい。亡くなった万吉君に代わって奎堂君に仕えるのも、志を叶えようというのも構わない・・・けれど、その君一人の勝手が隊を大きく揺るがす可能性だってある。この隊は大和行幸をお支えするに、いわば急ぎでかき集められた人間も多い・・・互いの信頼も薄い時に何かあれば、一気に士気が下がる。違うかい?」
「・・・」
うつむいて肩を震わせる雁音に十郎はため息をもらす。
「嫌な言い方だったな・・・これは建前。本音は、亥生は君を可愛がっているからね・・・こんな大事な話を知ってて黙っていたら、あとが怖いんだよ。怒った亥生が怖いのはよく知ってるだろう?」
おどけて言ってみせた十郎に、雁音が申し訳なさそうな表情をした。
「・・・乾さん・・・すみません、面倒かけます。」
「ほな、呼ばってくるわ。」
「はい。万吉君から話があると言って連れてきてください。そうすればここに来て察してくれるでしょうから。」
「ああ。わかった。」
「連れてきたで。」
「ありがとうございます、どうぞ。」
「失礼します。万吉君がお話って聞いたのですけど・・・?」
張り詰めた空気の中の違和感を亥生は口に出せなかった。
そんな亥生の前に雁音は万吉として進み出る。
「・・・お呼び立てして申し訳ありません。主の松本が随分と寿太郎を悲しませてしまい、お詫びせねばと水郡さんに呼んでいただいた次第です。」
亥生が十郎の腕のなかで見慣れぬ結紐を手にした寿太郎に目をやった。
「・・・おれの勝手で、寿太郎に形見の品という幼子には重いものを授けました。お許し下さい。」
言い慣れない「おれ」という自称、形見という言葉、そのはかなげな表情は亥生に悟らせるには充分だった。
亥生はゆっくりと腰をおろし、船上で切ったという不揃いな後ろ髪に手を伸ばした。
「そうなの・・・わざわざ息子への気遣いありがとう万吉くん。あとでこの髪を整えましょうね?」
「いわ、おさん・・・」
言葉を詰まらせ、何か言いたげな様子に亥生は首を振った。
「話せる時でいいから・・・ただ、ひとつだけ誓いなさい。決して、奎堂さんや隊のために命を捨てたりしないって。」
「え・・・」
「自分でない誰かのために生きるのでも、誰の命もひとつしかないんだもの・・・何より、万吉君は強い剣士でしょ?」
じっと逸らされない亥生の目に雁音が頷いた。
「・・・はい。殺されたって死にません・・・生きて三河武士の一人に村上万吉の名を刻ませてやりますから。」
「なら、もう私は何も言わないし、聞かない。これ以上いたらお邪魔だから失礼するわ。寿太郎もいらっしゃい。」
「はい・・・」
十郎から離れ、寿太郎は亥生の足元にしがみついた。
亥生のあとをついて歩く寿太郎が立ち止まり、亥生の袖をひく。
「ははうえ。」
「ん?」
「これ、やって?」
結紐を握り締めた小さな手が突き出される。
「あのね、これ、だいじにしてたら、万吉のお兄ちゃんは寿太郎のこころにいてくれるんだって。」
おそらくさんざん泣き喚いたであろうに、寿太郎は寿太郎なりに万吉の死を受け止めようとしているのが、亥生には辛かった。
それでも、子供らしいするするとした髪を櫛でといてやり、まだやっと肩につくくらいの髪をどうにか纏め、万吉の形見で結ってやった。
「はい、できた。」
「かっこいい?」
「うん・・・かっこいい。」
振り向いた息子の精一杯の笑顔に、亥生は二度と会えぬ少年を想いながら小さな身体を抱き寄せた。
この寺に集った者達の覚悟たるものが、亥生には空恐ろしく、また切なかった。
「亥生センセ、大丈夫なん・・・?」
亥生の背中が震えるのを、遅れて部屋を出た楠之助が見つけ駆け寄った。
「楠ちゃん・・・」
「軍議やからって追い出されてん。」
「そう・・・どうなるのかしらね。」
「何でセンセ、あの嬢ちゃん止めたらんかってん?仲よかってんやろ?」
楠之助が腑に落ちないといった顔をする。
亥生もそれを思わなかったわけではない。
「止められるものなら、止めたかったに決まってるでしょ。」
「せやったら・・・センセが言ったら、聞いたんやないか?」
「きっと無理ね。頭で考えて決めた事でなくて、あの子の心で想って決めた事に・・・他人がどうこう言えないもの。」
「何やそれ・・・どっちかて一緒やん。」
「ううん、少し違うの・・・きっと楠ちゃんもどこかでわかるから・・・それと、あの子が万吉君として生きることに安心もしてしまったの。」
ますますわからないと楠之助は黙り込む。
「あの子は、奎堂さんのためなら自分の身も心も・・・命さえも顧みないようなところがあるの。でも、万吉君として生きていくなら、その命を無駄にはしないと思う。」
楠之助は考えあぐね、頭をがしがしと掻いた。
「俺、わかれへんのや・・・そうまでするあん人らの意志が・・・人間死んだら終わりやん。誰かが代わったれるもんとちゃうやろ?」
「そうね、私もそう思う・・・きっとあの人達は引き返せない道を国のため、志のために選んだのね。」
「引き返せん道・・・?」
「だから、楠ちゃんが教えてあげて?笑って胸を張っていける道・・・楠ちゃんの真っ直ぐさなら、あの人たちをちゃんと助けてあげられるから。」
亥生の言うあの人たちは十郎や善之祐も指しているのだろうと感じた楠之助は、へらりといつもの調子で笑った。
「いやあ・・・俺ってそないすごいかな?総裁さんとは気ぃ合わなそうやけど、亥生センセが言うてくれるならいっちょやったるわ!」
楠之助が寿太郎にかまってやっていると、慌ただしく鉄石や奎堂が話をしながら外に出て行った。
次いで姿を見せた十郎に亥生が声をかけた。
「十郎さん、軍議は終わったんですか?」
「ああ。代官所を明け渡すように、今から話をつけに行く。」
いよいよ時が動くのだと亥生の顔にうかぶ緊張に十郎が微笑った。
「そんな顔するなよ。大丈夫、鈴木様は話の判るお方だから。」
「ええ・・・お気を付けて。あなたも行くの?」
十郎の後ろにいた雁音に聞くと、無言で首を振った。
「じゃあ、いらっしゃい。さっき髪をやってあげるって言ったものね。」
しゃきしゃきと鋏の音を耳元に聞きながら、雁音は寺の向こうにある代官所の屋根を見つめた。
楠之助は何かする気にならず、寿太郎を膝に乗せて二人の姿を見ていた。
「亥生さん・・・すみません。」
「なぁに?何か謝らなきゃいけないようなことしたの?」
「・・・・・」
雁音が黙り込んでから、誰もしゃべりはしなかった。
鋏の動きを止め、手ぬぐいで顔についた髪をはらってやると亥生は雁音の顔を覗き込んだ。
「こんなものかしら。どう?」
「首元が随分すっきりしました・・・ありがとうございます。」
「楠ちゃん、男の人から見てどう?変じゃない?」
「ん、ああ・・・格好ええですやん、いいんちゃいます?ま、俺には劣るけどぉ。」
「あら、そう・・・なら少しでもかっこよく見えるように、楠ちゃんを丸坊主にすればいいかしら?」
返された軽口に鋏を弄びながら亥生が冗談を言うと、楠之助が青ざめた。
「ちょっちょっ待ったってや!ほんの冗談やんかぁ。」
「楠ちゃん、あたまつるつるなるの?」
「ならへんわ!」
「あたまつるつる、おもしろいのに?」
「そりゃ、他人さんならおもろいけど、自分がなるんは嫌やって!」
そんな楠之助と寿太郎のやり取りを見ていた雁音は、小さな笑い声をもらした。
「あ・・・すまない、笑ってしまって・・・そんな時じゃないのにな。」
まじまじと見られ、バツが悪そうにうつむく雁音に楠之助が安心したようににかりと笑った。
「なんやぁ、笑えるやん!」
「は・・・?」
「あんた、ずーっと暗い顔してたやん?いろいろあったんはわかったけど、いつまいでもそない顔やったら、あんたがそこまでしたる奴が悲しむで?」
「万吉が・・・?」
「せや。めっちゃエエ奴やったんやろ?亥生センセが俺ならきっと友達んなれる言うてた・・・やから、そいつみたいに笑おたらええねん。自分も言うてたやろ?元気で明るい所好きやったて・・・」
英太郎や寿太郎をあやすように、雁音の頭を無遠慮に撫でて楠之助が微笑った。
その表情は、雁音を気遣う時の万吉に似るもので、雁音のかたくなな心が少しだけ和らいだ。
「ああ・・・ありがとう。松本があんな言い方したのに、すまないな。」
「あーせやから、総裁さんがとか、誰が何かとかええねん!あんたはあんたや!それでエエやろ・・・・えっと・・・」
「何だ?」
言葉に詰まった楠之助に雁音が首をかしげる。
「何て呼んだらエエん?総裁さんらが「村上」て呼んでるんは、やっぱそいつのこと本心では気にしとるからやないか?もしくは、あんたが「万吉」て呼ばれるんが辛いとかやないか?」
聞いていた亥生が、楠之助の考えに成程と思っていると、雁音は目を瞬かせていた。
「・・・そんな気遣いされたのは初めてだ。別にそうしたわけじゃなかったんだが・・・そうだな、皆気にしていたのかもしれない・・・「万吉」と名で呼んでくれ。亥生さんが友達になれると言ったお相手になら、あいつだってそう呼ばせたろうからな。」
「ほーか。ほなら万吉、何かあったら乾センセや亥生センセだけでなく、この楠之助さんのことも頼るんやで!」
どんっと胸を叩いて笑う楠之助につられ、その呼ばれた名の者がしていたように晴れやかな笑顔に雁音はなっていた。
「おう、頼むやさ、楠之助。」
「よかったわね、万吉くん。これ、渡しておくわね。」
亥生も二人の様子に微笑み、懐紙の包みを差し出した。
「何ですか?」
「今切った髪よ・・・楠ちゃんの言うように、あなたはあなただもの・・・女としての人生を投げ出したって、あなた自身を捨てなくていいの。全部終わってからでも、ちゃんとあなたに戻れるように・・・あなた自身を忘れないように持っていなさい。」
亥生の言葉に戸惑いつつも、雁音はそれを押し頂いた。
「・・・ありがとうございます。」
その時、寺の中がにわかに騒がしくなった。
代官所に出向いた奎堂が苛立たしく帰ってきていた。
「なんや?うまく話つかんかったんやろか?」
「まさか・・・代官様は勤皇に理解ある方なのでしょう・・・?」
不安は的中していた。
代官鈴木源内は、代官所の明け渡しを拒否した。天子様の御為とはいえ、八万石の所轄ごと明け渡すなど出来ぬと、奎堂達を追い返したのだった。
軍議を開くまでもなく、討ち入りが決まった。
仕度の整った隊士達を前に、主将の忠光公が高らかに声をあげた。
「皆よいか!攘夷の気すらない幕府の腑抜け共を制さねば、まともな世にならぬ!皆の命も、先の暮らしも国も、この菊の御旗こそが護ってゆく!我らは皇軍御先鋒として、天子様がためにこの地を制すのだ!」
男達は勇ましく勝鬨をあげ、日が傾きはじめる中、桜井寺を出立し代官所へ向かっていった。
「七生賊滅 天后照覧 中山侍従罷通る」と記された幟が遠くなるのを亥生は見送るしかなかった。
⑤へ続く