少しだけ昔の光景だった・・・
泣きじゃくる小さな少女と、その兄と縁あって兄妹の世話をしてやっていた男が二人―
「ややもん、ねれんもん・・・こわいもん・・・」
「にい様が一緒だろ?泣くなよ・・・」
「やだぁ・・・」
「よしよし、怖い夢でも見たのだろう・・・こうしてやれば眠れるだろう。」
「・・・おひざ、たかい!かたい!きもちくない!」
「・・・・・・そうか、俺の膝枕では駄目だったか・・・」
「そりゃそうだろうよ。膝枕ってんならやっぱり綺麗な女にやってもらってこそだっつうの。ま、こいつらにしたら母ちゃんの膝枕が一番なんだろうしな。」
「それは、そうだが・・・」
「やっぱ泣いてる女は抱いてやらなきゃだろ?」
「な、何を言ってるんです!子ども相手にっ」
「お前が何言ってるんだよ・・・ほれ、こうしてお前が眠れるまで抱っこしててやるよ。」
「ほんとけ?」
「ああ。お前たちが夜が怖くて眠れないようなら俺達がずっと側にいる。お前達が怖いと思うことから、いつだってまもってやる。だから、もう泣き止んでくれな?」
「ほんとに、ずっとおってくれるんけ?」
「ああ。お前は女の子だしな、誰か好きな奴ができてお嫁に行くまではずっとだ。」
「やや!およめいかんの、ずっとここにみんなとおるの!」
「もったいないなぁ・・・お前なら絶対おっきくなったら別嬪になるのに・・・それだったら俺の嫁になるか!」
「うん!」
「なら、嫁さんが寝られない怖いって泣いてたら心配になっちまうから、ちゃんと寝ような。」
「わかった・・・あしたもそのさきも、ずっといっしょにおる?」
「ああ。ずっと一緒にいてやる。」
少女の幸福に満ちた日々であった。大切な人達に守られ、愛されていたこの頃が、大好きな人のお嫁さんになれるものと笑っていた事も、その大きな手で背を撫ぜられ眠りについていた事も大人になるにつれて夢の中の出来事でしかなくなった。
「・・・一緒になどいれなかった・・・ずっとなんてなかったんだ。私の想いは・・・いつだって・・・叶ったためしがない・・・そこは、私が願った場所だ・・・返してくれ・・・」
幼い日の自分に大人の自分が苦しげに言うも、その声は幼い自分にも遠い日の優しい人達にも届かない。
「返せ!」
伸ばした手を受け止められる。あの頃に好きだった手でも、どれだけ願ってもつなぐことのなかった手でもない、柔らかで暖かな・・・もっともっと遠い日に慈しんでくれた手を呼び覚まされる手・・・
「・・・かぁ・・・さ・・・」
「・・・まだ寝てらっしゃい、誰もどこにも行かないわ。」
「ん・・・・・・・え!?あ!亥生さん、ごめんなさいっ!」
「やあね、寝なさいって言ったのは私よ?どうして雁音ちゃんが謝るの?」
眠りから覚めた雁音があわあわと起き上がると、少し広がった髪を整えてやりながら亥生が笑った。
「わ、わたし・・・本当はこんな甘ったれな子どもじゃないんですからね!そこらの男どもには負けないくらいには強いんですから!」
「うん、知ってる。ちょっと眠れてない疲れがあっただけだものね。」
はいはいと子供の強がりを聞き流すように言う亥生に雁音は少しだけ文句を続けたかったが、足元にかけられた羽織に目をやった。
「これ・・・」
「ああ、弥四郎さんが持ってきてくれたの。お菓子を買ってきてくれた時には雁音ちゃんが寝てしまってたから。」
「そうですか・・・弥四郎が・・・」
無意識に雁音は羽織を穏やかな表情で抱きしめた。
「亥生さん・・・ご主人が迎えに来るまではここにいらっしゃるんですよね?」
「ええ。」
「じゃあ・・・その間、料理を教えてくれませんか?」
抱きしめたままの弥四郎の羽織を弄びながら、たどたどしく雁音が申し出る。
「お料理を?別に構わないけど・・・」
「弥四郎のためにも覚えてやりたいんです。乾さんが、亥生さんの想いに応えたみたいに・・・私も、弥四郎が私を大切にしてしてくれていることに応えたいです。」
「え?」
雁音の言葉を亥生は奇妙に感じた。確かに先刻、雁音の選ぶ道は雁音自身の心で決めればいいと昔の自分の話もして言ったが、雁音の中で亥生と雁音が同じ立ち位置でなく、十郎と雁音が同じ立ち位置になってしまっているようで、道の選び方が亥生の想定の斜め上をいっていた。
「雁音ちゃんは・・・それでいいの?」
「松本は・・・ああいう男です。でも弥四郎は違う・・・から。弥四郎が私にかけてくれた想いとか時間とかを同じだけかえしていきたいです。それに、亥生さん達みたいに仲のいい家族っていいなって思うから・・・」
雁音の言う通り、弥四郎なら人としても夫としても雁音を大切にして、愛して、誰もが羨むような家庭を築けるだろう。
しかし、それで本当に雁音の心は満足なのか亥生は疑問に思ったが、弥四郎と生きる道を選ぼうとする雁音の気持ちは偽りではないと感じられた。
「わかったわ。何を教えましょうか?」
「うーん・・・何がいいかな・・・弥四郎は好き嫌いがないからなぁ・・・」
誰は好き嫌いが多かったのかと、ついつい亥生は訝しんでしまう。
いや、誰がどう見ても弥四郎と共に生きたほうが女の雁音にとってはいいはずなのだ。
雁音が選んだ道なら、その背を押してやると言った。弥四郎にだって、その想いが叶うと良いと言っている。
まだまだ気がかりな点はあるが、ここにいる間はとにかく雁音を見守ろうと亥生は思い直した。
亥生に教わりながら雁音が夕餉を作り終える頃に、寿太郎を連れた万吉が弥四郎の家を訪ねた。
雁音の姿を見るなり、家中に響くほどの声と共に土下座をした万吉に雁音が慌てて駆け寄り立ち上がらせて笑いかければ、普段と変わりない様子に安心した万吉が泣き出してしまうといった一幕があり、無事に雁音と万吉の間の溝は埋まったようだ。
その後も十郎が心に焦りを抱えながら京にのぼっている間、亥生と寿太郎は弥四郎達の傍らで穏やかな時を過ごしていた。
雁音は外へ出ることも増え、弥四郎と宵祭りに出かけるなどした日もあり、心の傷は少しづつ癒えているようだった。
大和から京へ入った十郎と虎太郎は十津川での話をするため急ぎ奎堂の家へ向かった。
「まぁ、そんなわけで十津川の野崎殿も深瀬殿もこころよぉ協力してくれるようじゃ。よかったのぉ奎堂。」
「そうだな。長旅させてまって悪かったな・・・疲れたら?」
「いや、この先がもっと大変になるんだろうから、これぐらいなんてことないさ。」
「奇特な奴だよ、お前は。景気づけに今晩どうだ?いい店があんだよ。」
「お、ええのぉ。俺も久々におくにの顔が見たいぜよ。」
虎太郎の相槌に、店とはそういう店なのだろうかと十郎は思いながら首を横に振った。
「いや、遠慮しておくよ。亥生と寿太郎を迎えに行かなきゃいけないしね。」
「何だよ、一日くらい先でもいいじゃねぇか。よっぽど尻に引かれてんのかよ?」
「そんなんじゃないよ。」
「ほうじゃの。何せ家を出て一刻も経たん頃から奥方が無事か気にしとるくらいじゃき、よっぽどお互い惚れあっとるんじゃろうて、羨ましいかぎりぜよ。」
けらけらと虎太郎が笑いながら十郎の肩を叩いた。
「息子ならちょいちょい万吉と遊んでんぜ。亥生さんの方は息子を迎えにきた時にうちの奴と話してんのは見たな・・・」
「そう・・・君とは何も話してないか・・・」
十郎が何気なく口にした言葉に奎堂が眉間に皺を寄せた。
「なんだよ。あいつのことか?もう色々おさめてんだ・・・もうええんだてや。」
「・・・そんな顔して、何がもういいって言うんだ?」
十郎が低い声で問うと、場の空気の悪さに居たたまれない虎太郎が立ち上がった。
「十郎殿が店に行くにしろ行かんにしろ、俺は先に行っとるき。」
そそくさと虎太郎が出て行くと、十郎は浅くため息をついた。
「虎太郎君も君たちの事を気にかけてたよ。弥四郎君だって、結局は幼友達としての君への気持ちを捨てたりは出来ずに苦しい気持ちでいるだろう・・・何もおさまってなんかいないじゃないか。」
「わかっとる・・・」
「・・・君にも関わることなんだが、主計さんの所にいた郷伍君を覚えてる?」
「は?まぁな・・・」
「今は五條の代官所に務めていてね、十津川の帰りに会ってきた。」
「ふぅん・・・天子様のため、村のためっつってたガキが代官所務めとはな・・・」
奎堂は深く煙管を吸い込み、紫煙を吐いて十郎を睨む。
「で、話が飛びすぎてんだよ。お前は何が言いてえんだ?嫁の代わりに説教でもたれるんじゃねえのか?」
「もし、あの子ともう一度分かり合う気があるなら知っておくべきだ・・・君はあの時に会っていないけど、主計さんのもとにいた子は・・・」
「知っとる。」
「え・・・」
「あの家に居たガキが二人だったつうのも、俺のあとをちょろちょろ付いてまわって、帰り際に自分も連れてけと言って俺の脇差を受け取ったのも・・・それが誰なのかもな。」
再び煙管を口に含んで奎堂は目を伏せた。
「しかし五條に・・・それも代官所かよ・・・面倒だな。十郎、嫁と息子を迎えに弥四郎の所に行ったらよぉ、あいつに言ってくれや。「もういい」ってな。」
煙管の灰を乱暴に落として奎堂は苦笑いをうかべる。
「もういいって・・・知ってるというなら、あの子がどれだけの想いを持ってあの村を飛び出したかだってわかるんだろ!?」
「だからこそだ。お前も何となくわかっとるだら?俺らがこの先の拠点にと目論んどるのが五條の代官所ってな・・・俺たちが大将に据えようと考えとるのは中山様といってな、聡明なお公家様とはいえ齢十九だ。穏便に事がすまねえようなら、俺らは五條の地に戦の火種を落とすだろう・・・そうなりゃ、あいつはおらんほうええだら?血より濃いもんも無えんだしよ・・・」
「・・・そのために、あの子や弥四郎君からの信頼も失ったままでいいつもりなのか。」
「ま、誰かそういう奴が組織に必要ってこった。」
虎太郎は奎堂が人を手駒としか見ないと言ったが、その本質は違うのだ。本質では松本奎堂という人間はきちんと人らしい人物であり、仲間たちとの志のため自らを消して生きてきてしまった・・・人としては不器用すぎる、それでも志士としては誰よりも優れている。大義のためになら、人としての己を殺し鬼のような立場を選んでしまう奎堂の気持ちをそれ以上責めることなど、十郎に出来はしない。
「なんなら、場所も場所だでよ、お前もどっか逃げるなり手を引くかしとけよ。」
「・・・いや、こちらだって乗りかかった舟だ。君たちに協力するさ。」
「どうすんだよ?その・・・家とかはよ・・・」
「君と同じ方法くらいしかないだろうな。」
師の願った国をつくり守っていきたいという己の志も、己を支えてくれている家族を護るのも共に叶えるためには、危なっかしい自分の生き様から家族を遠ざける他ないだろう。
目の前の男が心をかける少女を突き放すように・・・
「お前ん家まで巻き込んでまうな。」
「遅かれ早かれそうなっていたさ。それに負ける戦になるわけじゃない・・・無事に事が済んで許してくれれば御の字ってところだな。」
「勝手を許してくれるような女じゃ無さそうだがな、俺んとこもお前んとこも・・・」
「そうだな、今までも随分好き勝手していたけど、これで本当に愛想をつかされそうだ。でも、もしもを思えばそれでいいのかもしれないな・・・」
「ほだな・・・すまねえが、あいつへの言付けは頼むぞ。」
「・・・ああ。」
④へ続く