善之祐達が止めても耳を貸さない十郎は、その目に危なげな暗さを携えたまま、出ていこうとする。
「何のつもり、亥生?」
「行かせません。」
履物を履いて立ち上がった十郎は、戸口の前で両の腕を伸ばし出て行かせまいとする亥生に冷たい声で聞いた。
「どきなさい。」
「どきません。」
「どけっ!!」
「嫌っ!!」
亥生にさえ乱暴な物言いの十郎に善之祐らは驚くも、亥生の必死な叫びにも似た一言に何も言い出せなかった。
亥生は震えるような、それでもしっかりとした声で言葉を紡ぐ。
「十郎さんが大切な人を失くすかもしれない、自分の信じたものがなくなるかもしれないって怖いのも・・・それをどうやっても取り戻したいって思うのもわかります。」
「なら、そこをどきなさい。」
「いいえ、十郎さんが自分の気持ちしか考えてないから行かせません。自分の命を引き換えにしてもいいなんて何言ってるんですか?」
「・・・・・。」
「どうしてわからへんのです!?十郎さんが梅田先生を失いたないと思うように、十郎さんを失いたない人が沢山いるのに・・・そんなこと言えるんです?」
「・・・先生に比べれば自分なんて・・・」
「知ったことですか!!私は・・・梅田先生を存じません。十郎さんの慕う師なら、できれば無事であって欲しい思います。やけど、それより私は十郎さんのが大切です!水郡さんも、一郎君も楠ちゃんも、そう思って十郎さんとこに来てくれたんやないですか!!」
亥生の言葉に三人は十郎に向かって頷いた。
「町のみなさんかて、十郎さんのこと心配してます・・・梅田先生が十郎さんにとって大切なように、十郎さんが大切な人がおるんです・・・それでも江戸へ行きますか?」
「それが・・・国のためになるのなら・・・」
亥生の眼差しに気持ちが揺らぎそうになった十郎は刀の柄を握り締める。
「そうですか・・・」
亥生はその姿を見てため息を一つすると、きっと十郎を睨みつける。
「なら、私を殺して出てったってください。」
その一言に男四人が驚く。
「亥生センセまで、何わけのわからんこと言い出してん!?」
「楠の言う通りや、二人共落ち着いてちゃんと話をしようや・・・」
楠之助と善之祐が言っても亥生は聞く気がないらしく、声を張り上げる。
「十郎さん死ぬ気なんでしょ?ここに帰ってこないかもしれないんでしょ?十郎さんの帰らないここに私は居る気はありません!江戸から梅田先生を取り戻すに、幕府の人を斬らねばならないかもしれないんですよ?女の私一人斬れない剣の腕では、とても江戸など行けません・・・さあ、どうぞ。十郎さんになら、この命差し上げます。」
「何を・・・馬鹿な事を言って・・・」
「馬鹿じゃありません!私は本気です!・・・・でも叶うなら、梅田先生の代わりにはなれないけど、お側に居ますから・・・十郎さんの悲しみや怒りが落ち着くまで支えますから・・・十郎さんのその身が幕府に狙われて危ない時は何をしてでもお護りしますから・・・死んでもいいなんて言わないで・・・危ないことしないで・・・」
ぼろぼろと涙をこぼしはじめた亥生に男達は何も言えなかった。
「十郎さんが居なくなってしまうなら、私も要らない!!だから、どうしても死ぬ覚悟で行くなら、私のこと殺してください・・・」
十郎は腰に差した大小を抜いて床に置いた。
「全く・・・なんて人質をとるんだ・・・斬れるわけないだろう・・・わかったよ。行かない。」
「ほんとうですか・・・?」
「ああ、そりゃ梅田先生は失くしてはいけない人だけど、亥生を失くすことだって・・・まして自分が手を下すなんて・・・できるわけないだろう?」
十郎は困ったような笑い顔で亥生の涙に濡れる頬に手を添えた。
何日ぶりかの十郎のいつもの表情に亥生は更に涙を流し、十郎の胸元を固く握った拳で叩いた。
「十郎さんの馬鹿・・・阿呆!わからずや!」
「うん、ごめん。」
「どんだけ心配した思うてるんですか!」
「悪かった。」
「十郎さんの手は、人を殺す手やないんです、人を助けて生かす手でしょ?」
「はい。」
「なのに何でわからんのですか!」
「ごめん。」
「落ち込んでる間、お酒ばっかでご飯もろくに食べないし!それでも医者ですか!?」
「はい!すみません!」
「もう・・・自分は死んでもいいなんて言っちゃ嫌ですからね!」
「ああ、言わないから。」
「嘘だぁ・・・十郎さん、また何かの拍子に言いそうだもん・・・」
「絶対言わないから、約束するから。」
「でもわからんもん・・・」
どれだけ十郎がなだめても、泣いて感情が混乱している亥生は何度も話が死ぬと言うなという件について戻るので、十郎はほとほと困り果てた。
「あーあ、乾センセが亥生センセのこと泣かしてもーたんやから、何とかしたりや。」
「せやな、何とかせえよ乾君。」
「すんません、師匠。俺も同意見です。」
善之祐達にいたっては十郎を助けてやる気は微塵もなく突き放す。
「亥生、もう泣かないで、ね?わらってってば。」
「泣かせたの十郎さんだもん・・・」
「だから本当にごめんって、もう馬鹿なこと考えないし、ちゃんとここに居るから・・・」
「本当に?」
「うん・・・だからもう泣き止んでよ・・・僕が悪かったせいだけど、亥生の泣くのはあまり見たくないよ。」
「・・・はい。」
涙をごしごしと拭って亥生は小さく笑った。十郎がその表情にほっとした途端、亥生の身体が前のめりにぐらりと揺れたので、十郎は慌ててその腕の中に抱きとめた。
「亥生!?」
どうしたのかと名を呼ぶとすやすやと寝息がかえってきた。
「寝てる・・・?」
「君が心配でろくすっぽ寝てへんかったらしいからな、安心して気が抜けてまったんやろ。」
「こないに隈作って、あの日からやと四日くらい寝れてへんやないですか?」
「師匠、亥生先生をちゃんと休ませてから、診療所開けないかんですね。」
「ああ、そうだね。とりあえず寝かせてこようか・・・」
二階に運んでやろうと十郎は亥生の身体を抱きかかえた。
「でもセンセ、亥生センセの手・・・めっちゃセンセの着物握りこんでるで?」
「ホンマや、英太郎がようこうやって寝よるわ。なかなか離せんねんこれ、そのまま寝かしたり。」
「は、はぁ・・・」
「よっぽど乾センセを離したないんやろなぁ・・・」
子供のようなあどけない寝顔の亥生を十郎はゆっくり抱えなおし、自分の膝を枕にするように寝かせる。
「本当、皆さんにも心配かけました。」
「ホンマやでセンセ!普段冷静な一郎はんが血相変えてセンセらを何とか助けたってくれ言うておじさんとこ来たんやで?びっくらこきましたわ。」
「すまないね、長野君。ありがとう。」
「いえ・・・むしろ何も出来んかってすみません。」
ニヤニヤと楠之助に笑われながら顔を赤くした一郎に十郎が笑いかけると、一郎は申し訳なさそうに答えた。
「まあ・・・何も出来んかったんは俺らもやけどな。」
善之助が一郎を励ますように苦笑した。
「そんな、水郡さん達が来ていなかったらどうなってたか・・・」
「はぁ!?何言うてんのや、君をここに繋ぎ留めたんは亥生さんやないか。」
「え・・・」
「せやせや、亥生センセが必死に言うてくれたから思いとどまれたんですやろ?もーホンマ、善之祐おじさんも俺も何しに来たんやねんって話ですよ。」
善之祐の言葉を謙遜と捉えた十郎が返すと、善之祐と楠之助が亥生の名を出すので十郎は膝に乗せた亥生の顔を見た。
ふさぎ込んでしまってから、まともに顔を見ていなかった。目の下の隈もそうだが、柔らかな頬が少し痩けた気もする。
自分が物を口にしない間、同じように何も食べなかったのだろうか・・・ひどい態度で怒鳴った時もあった。あんなにも泣かせた・・・それだけ迷惑も心配もかけられながら、亥生は決して自分の側を離れなかった。怒りもせず、怯えもせず、ただただ自分が立ち直るのを信じて見守ろうとしてくれていた。
「・・・ばかだなぁ・・・こんな僕のために・・・」
亥生の髪をひと撫でして呟くと、身じろいだ亥生がそのまま目を開けた。
「・・・十郎さん?」
「起こしてしまったかい?まだ寝ていていいよ。」
寝ぼけ眼な様子であったが、我に返って亥生はその身を起こした。
「嫌です!寝てる隙に十郎さんが江戸に行っちゃうかもしれません!」
「えぇ!?またその話に戻るの!?」
寝入ってしまう前の会話を覚えていないのか、真剣に言う亥生に十郎の肩ががくりと落ちたのを善之祐達は見た。
「亥生センセェ、もう解決したやないですか。乾センセはここに居る言うてましたやろ?」
楠之助に笑われながら亥生は改めて善之祐ら三人を見て首をかしげた。
「楠ちゃん?水郡さんも一郎君もどうしてここに?」
きょとんと尋ねる亥生に男四人唖然となった。あれだけ泣き喚いた前後の記憶も曖昧なくらい、亥生の心持ちもぎりぎりのところにきていたのかもしれない。
しかし、それだけに涙ながらに叫ばれた言葉の全ては本心なのだろう。
十郎の胸が痛んだ。自分を殺してくれなど言わせるほどに、優しい亥生の心を曇らせたのは師の教えにばかり縋っていた自分の弱さだ。
「乾君、ちょおこっち向け。」
「は・・!?ぃったあ!!」
十郎が返事をするより早く善之祐の拳骨が振り下ろされる。
「何するんですか、水郡さん!?」
「亥生さんをあっこまで追い込んだ罰や。それに俺かて君が死ぬようなことあって欲しないからな、自分の命粗末にしようとしたバカ者への罰にはまだ足りんくらいや。一発で済ましたんやから感謝しい!」
「・・・はい。」
じんじんと痛む頭を押さえながら涙目の十郎を気遣う亥生を見て、善之祐は亥生の名も呼ぶ。
「亥生さん。」
「はい?きゃっ・・・」
びしびしと二つ音をさせ、そのひたいに人差し指と中指を弾く。亥生もまた地味な痛みにひたいをおさえた。
「はい、出ました!善之祐おじさんの二連射でこピン!」
「何の解説やねん。」
楠之助が手を叩き、一郎が毎度の合いの手を入れる。
「亥生さん、あんたもあんたや!簡単に自分なんいらんとか、死んでもエエみたいなこと言ったらあかん!」
「あ・・・」
「思い出したか?」
「はい・・・十郎さんの為に皆さん来てくれたんでしたよね・・・失礼しました。取り乱して騒いですみませんでした。」
善之祐の説教に亥生はしゅんとうなだれた。
「君が乾君に居なくなって欲しくないと思うように、俺らは君にも居なくなって欲しない。英太郎なん、君のことえっらい好きやからなぁ、何かあったら大泣きするで。」
「はい・・・」
「もうあんなこと言うたらアカンで?」
「はい。」
微笑んだ亥生の頭をくしゃりと善之祐は撫でてやる。
「あー女の子を叱るっちゅうんは難しいな。男は拳骨か尻たたきで済むんやが・・・」
「・・・この年になって尻をたたかれなかった事に安心してます。」
善之祐にじろりと見られ、十郎が決まり悪そうに呟くと、その隣で亥生がくすくすと笑った。
流れる空気はぴりぴり張り詰めたものから、いつもの穏やかなものに戻っていた。
③へ続く