十津川から帰着し、大獄の報せを聞いた日より、十郎は塞ぎ込むばかりの日を送っていた。

診療所も開けず、食事もほとんど摂ろうとせず、酒を呑んでは書を読みふけり、真昼間から泥のように眠り込むのを繰り返していた。


側で献身的に見守る亥生もまた、鬱屈として危なげな十郎が気がかりなため寝ずの番に近い状態であった。亥生がいれば、また時間が経てば事がおさまるだろうと見ていた弟子の一郎であったが、二人の様子に心配になり、善之祐に頼ることにした。


一郎に連れられ善之祐も楠之助も診療所に駆けつけた。

「師匠、亥生先生、一郎です。入りますで。」

「一郎君、ごめんね?今日も休診にするから帰っていいよ?」

一郎の声に小さく戸を開けて言う亥生の様子に善之祐も楠之助もひどく驚いた。

いつでもにこやかに客人を迎えていた亥生の顔は目の下に隈をつくり、はつらつとした覇気もない。

声もかすれ気味で、心なしかやつれてもいるようだった。

「亥生さん!なんて顔色や!?大丈夫なんか?」

「ええ・・・十郎さんの辛さに比べたら私なんて・・・」

「一郎はんに聞いたで、亥生センセ寝てもおらんと乾センセの様子見てんのやろ?善之祐おじさんや俺らも説得してみるで、ちっと休んでや?」

「・・・無理よ・・・あの日以来、私にももう何も話してくれないもの・・・」

泣きそうな顔で亥生は下を向いた。


「とにかく、あげてもらえんやろか?俺らも心配なんや。」

「・・・わかりました。・・・どうぞ。」

亥生に戸を開けてもらい中に入ると、充満する酒の匂いに楠之助が顔をしかめた。

亥生が暮らすようになって暖かな空気が流れていたこの場所は、今は身をすくめたくなるほどの張り詰めた空気が漂っていた。

一郎も師の姿にかける言葉を見つけられずにいたので、善之祐が十郎の背に話しかける。

「よぉ乾君、調子はどうや?」

「・・・・水郡さん。」

振り向いた十郎の目は何を考えているのかわからない暗さをおびて澱んでいた。

「思うことも色々ある思うが、ちっと呑み過ぎやないか?本もそない散らかして・・・」

十郎の周りには、師の梅田についていた時に受け継いだであろう物や、軍用書のようなものまで書物が散乱している。常であれば、こんな散らかり方はまずもってない。


「今日はそんな呑んでませんよ・・・」

「せやけどセンセ!皆ぃんな心配してんやで?亥生センセなんてろくに寝もせんとおるくらいやんか・・・」

「関係ないだろ、君も亥生も。」

冷たく言い放たれた言葉に、声をかけた楠之助も離れて聞いていた亥生も身を震わせた。

師を奪われた悲しみ、理不尽な大獄を決行した幕府への憤りや怒りが穏やかな十郎を壊したのは明らかだった。


「乾君、気持ちはわかる。やけど、ここでくさっとってエエんか?師が捕まったかてその教えまで死ぬわけやない。自分が生きているからこそ、意志を継がなアカンのと違うか?」


「梅田先生は失くしていい人ではありません!新たな国のために居なくてはならないお人です。他の捕まった方達だってきっと・・・けれど、これが国の答えなんですよ!幕府のためなら仇なす者は全て捨てる!このままいけば、勤王の志士は全員、夷敵に支配された幕府に殺されるんですよ・・・」


「せやから!!そうさせんように、俺らは幕府の手に落ちず生きとる!違うんか!?」

善之祐は自棄になる十郎の肩を揺さぶり怒鳴った。

「・・・わかってますよ・・・」

「乾君・・・」

「わかってるんですよ!頭では!けど・・・もうどうにもならない・・・ずっと考えてるんです・・・自分がどうすればいいのか・・・どうするべきか・・・」

眉根を寄せた険しく悲痛な表情で十郎は言う。


「あの・・・師匠・・・俺らも力になりますから、一緒に考えましょや・・・?」

「せやせや、センセからみたら俺らなん頼りない思うけど・・・一人で考え込んでたらアカンで?」

一郎や楠之助も十郎を励ますように言うのを亥生は見ていることしか出来なかった。

やはり自分ではこの人を支えられないのだと、少しの悲しさを感じながら・・・


「・・・長野君も楠之助君もすまないね・・・水郡さんも・・・心配をかけました。」

十郎は同志三人に向かって礼を言った。その表情は少しだけ和らいでみえたので誰もが安心した。

「センセが大丈夫なら、もうここ開けたれるな!町のおっちゃんやおばちゃんも医者がやっとらんと困るゆうてるで?」

「師匠が十津川へお出かけの間、亥生先生と自分だけでは診たれん日もありましたし、師匠の診察でな嫌や言う人もおったんですから・・・明日には診療所開けたれますかね?」

楠之助と一郎が十郎に笑いかけているのを見て亥生もほっとした表情になりかけたが、十郎の発した言葉に目を見開いた。


「いや、またしばらく留守にする。もうここは閉めるかもしれない。」

「は!?ちょっとセンセ何言うてるん?」

「江戸へ行ってくるよ。」

「江戸!?何しに行く気や!?」

善之祐は十郎に問い詰める。勤王の志士にとって、それも幕府によるあの大獄という弾圧すぐの江戸など敵地でしかない。そんな所に何をしに・・・いや、しでかしに行くつもりなのか。

「捕らわれた志士は江戸に送られただけで、まだ処刑はされてないのでしょう?先生を取り戻しに行くのです。」

「なに言うてん、阿呆か!?死ぬかもわからんぞそんなん!」

「構いません!言ったでしょう、梅田先生は失くしてはならない人だと!先生が先の世のために生きられるなら、この命と引き換えにしても助けるべきでしょうう!?」

「センセ、あんた考えとった結論がそれなんか!?おかしいやろ!!」

「そうです師匠、楠っさんの言う通りや、策も無しに幕府の所に行くなんて危険すぎます!」

「乾君、考え直せ。他のやり方を考えよう、なぁ?」

「考えてたら間に合わないかもしれません。僕は行きます。」

普段の十郎からは考えられないほど乱暴な手つきで大小を引っ掴む。

けれども、その刀は形ばかりで使われたことがほぼ無いだろうもの。

そんな刀で幕府に切り込もうなど無理でしかない。




②へ続く