善之祐に連れられ、三河の志士・松本奎堂と伊藤三弥は乾十郎の診療所のある町までやって来た。

賑やかな町の中ほどにあるそこでは、すっかり町に慣れた亥生が箒をかけていた。

「あら、水郡さん!どうなさったんですか?」

善之祐に気付くと箒を持っていた手をとめて首をかしげた。

「乾君に取りつぎたい客人なんだが・・・今居るかい?」

善之祐が後ろの二人を掌で示すと二人は亥生に目礼し、亥生もぺこりと頭を下げた。

「昨日遅くに往診を頼まれまして・・・その後少し呑みに行かれたのでまだおやすみしてます。少し待って貰えますか?」

「ああ、すまんね。」

亥生は三人を外に待たせ、いそいそと診療所の中へ戻っていった。


「十郎さん!朝ですよー」

「もうっ!水郡さんがお見えなんですってば!」

「ほら、しゃんとしてくださいよぉー」

よく通る声が外にも聞こえ善之祐は笑った。少し前にここの弟子、長野一郎が二人の仲が良すぎて突っ込みきれないと言っていたが・・・成程、すっかり嫁の尻にしかれている亭主のようだなと思っていた。

十郎を知らない奎堂と三弥においては、本当に頼れる人物なのだろうかと一抹の不安を覚えたのだった。


「すみません、お待たせして。どうぞ。」

何とか十郎をたたき起こしたらしい亥生に案内され、三人は診療所の中へ通された。


「お茶淹れますから、ゆっくりなさってください。十郎さんはお味噌汁飲んで目を覚まして下さい。はい。」

「あぁ・・・ありがと亥生。」

まだ目覚めきっていない十郎は味噌汁をすすり、ほうっと息をついた。

「いやぁ、呑んだ翌朝の味噌汁は美味いなぁ。」

「あら、呑んだ翌日しか美味しくないみたいですね?」

「いや、違う違う。いつだって亥生の作ったものは美味いよ。ただ呑んだ日の次の胃にはしみじみしみて美味しいってことだって。」

「もう・・・またそう言ったって晩のお魚奮発とかしてあげませんからね。皆さんのお茶入りましたから持ってって下さい。」

「ありがとう。味噌汁ごちそうさま。」

「はい、おそまつさまです。」

十郎が返す椀を受け取り、湯呑四つを乗せた盆をさっと出す亥生とその盆を受け取っている十郎を見ていて善之祐は呆れた。

何故これで夫婦でないのか、二人して医学馬鹿なのか国学馬鹿なのか、夫婦という形を取らずとも二人で一緒にいられるものかもしれないが、一郎が気恥ずかしい時があるのだと言っていたのもよく解る気がしたのだった。

亥生の味噌汁でしっかり目の覚めた十郎は善之祐達の前に湯呑を置きながら訊ねた。

「水郡さん、そちらのお二人は?」

「おう、昨日ウチの近くに遊説に来とったんや。話しとったらウマが合ってな、十津川まで行きたいらしいんだがツテが無いんやそうや。」

「十津川ですか・・・」

「乾君は五條の出やから、もしやと思ってな。十津川に口利きしたりできる人とかおるか?」

「結構おりますねぇ、それになんなら五條も見て貰えたらいいと思いますが・・・」

「面倒見たったれんか?わざわざ三河から来てくれてんよ、二人とも。」

「三河から?」

「まぁ、遠い所を・・・大変でしたでしょう?」

十郎と亥生もやはり三河の地からの来訪に驚いた。


「いえ、ここまでは知人を頼ったりしながらで来られましたので・・・」

「水郡さんと話が合ったという事は、貴方がたも勤皇を掲げてらっしゃるのですか?」


「はい、申し遅れてすみません。伊藤三弥と申します。頼三樹三郎先生に学んでおります。十津川へ行くのが良しと教えて下さったのも頼先生でして。」

「俺は松本奎堂といいます。江戸の昌平黌で学び、藤田東湖先生にも学びました。その後伊藤と同じく頼先生や梅田先生の下に通っておりました。」

十郎は二人のそれぞれの師の話を聞きながら喜んだ。

「梅田先生に!?奇遇だな、僕も梅田先生にお世話になったんだよ。最近お会いしてないんだが、元気にしておいでですか?」

「ええ、まさか乾殿も梅田先生に学んでいたとは・・・世間は狭い。」


男達は師の話から打ち解け盛り上がり始めたが、亥生には引っかかることがあった。

「あの・・・松本様も伊藤様も三河の出なのですよね?本当に勤皇の志でいらっしゃるんですか?」

「あぁ、それは水郡殿にも驚かれましたが・・・」

「何だ?徳川ゆかりの地の者が勤皇を唱えているのがおかしいと申されるか?」

奎堂は話に水をさされて亥生を睨みながら眉間に皺をよせた。

「だって口では勤皇を掲げているといくらでも言えますもの。そう言って勤王派の方に取り入っておきながら捕らえてやろうという幕府の方だって・・・もしかしたらいるんじゃありませんか?」

「何だと!?」

しかし、眼光鋭い奎堂の睨みにも怯まぬ亥生の一言に奎堂の眉間の皺はさらに深くなった。

亥生が女性でなければ手をあげてしまったのではないかと、見ていた三弥は肝を冷やした。

「亥生。」

十郎が落ち着いた声で亥生の名を呼び視線でたしなめた。

「・・・すみません。」

「謝る相手が違うだろ?」

「松本様、伊藤様、失礼なことを申し上げました。すみません・・・」

「お二人共、気を悪くされただろうが許してやってくれ。亥生は幕吏に親の様に慕っていた奉公先の主人を革新派の疑いありとして奪われていてね、どうにも幕府に関わる人間を嫌っているんですよ。」

十郎が柔和な顔で言う隣で亥生は悔しげに口唇を噛んだ。


それでも、奎堂は納得のいかない様子であった。亥生の心配が晴らされなけらば十郎に十津川までの案内を頼む事は出来まいと感じた三弥はおどけて言ってみせた。


「左様でしたか、それはお辛かったでしょう。そうとも知らず失礼ぶっこいたのは奎堂さんですね。」

「なんだと、てめえ!」

「これこのように。この男は目つきも悪ければ、口も悪い。このナリでは勤皇を掲げる者に見えずとも文句言えません。」

「三弥・・・言わせておけば何っつう言い草だ。」

「野蛮な徳川の出自ゆえ、これも野蛮なのでございます。」

「ほぉーお前の気持ちはよーくわかったわ。お前だって家康公の先祖ゆかりの地に生まれたから腹の黒い狸みたい育ってまったんだな。」

「おやおや、また悪いことを言うのはその口ですか。昨日も水郡殿に言われたばかりにございましょう。話し合いは相手があってこそ、相手を知って物を説かねばならぬと。」

三弥と奎堂のやりとりに亥生は先程までの警戒していた気持ちが薄らいだのか袖で口元を隠しくすりと笑った。奎堂はその姿を見てバツが悪そうに頭を掻きながら言った。


「まあ、不躾な物言いをして失礼した。俺は三河でも特に徳川に縁深い刈谷藩の生まれだ。神君家康公はかつては郷土の誉であったが、今の徳川には憤りしか感じぬ。そんなところから、この生き様を選んだ。決して乾殿を貶めようなどという野心あってこちらを訪ねたのではない。どうか信用してくれ。」

十郎を貶めるためでないという一言に亥生はほっとした顔になった。

「松本様、頭を上げてください。失礼を申したのは私です。むしろ徳川ゆかりの地にお生まれになりながら、徳川に反して生きるのは辛いものがございましょう・・・そうしたことも慮れず申し訳ありません。」


しっかりと詫びる亥生の頭を撫ぜながら十郎は笑った。

「亥生は心配性だよ。水郡さんがお連れになった御人なら十分信頼できるだろう?」

「そうですね、水郡さんほどの方が幕府方にそんな騙され方、するわけありませんね。」

一緒に暮らして笑い方が似てきた二人に微笑まれながら善之祐が頬を掻いた。

「おいおい、二人とも俺を買いかぶりすぎやないか?・・・ただそこまで言うてくれるんなら、どうやろ?この二人を十津川まで案内したれないか?」


善之祐が改めて十郎にうかがうと、奎堂と三弥も頼みますと頭を下げた。

「いや・・・叶えてさしあげたいのはやまやまですが・・・」

十郎は隣の亥生を見た。遠出をするに気がかりなのは亥生を一人ここにおいて行かねばならない。しかし、そんな十郎の気持ちを知ってか知らずか亥生はにこりと笑って言う。

「行ってらっしゃいませ、十郎さん。」

「え・・・?」

「お二人の力に、ひいては勤皇家の方たちの力になりたいのでしょう?」

「けど、長く家をあけなければならないし・・・」

「診療所のことなら大丈夫です。私だって少しは医者として育ってるんですよ?一郎君だっていますし、留守は任せてください。」

亥生はそう言って胸を叩いた。

「それに十郎さん前に言ってたじゃないですか。『五條の地は必ず改革の要になると思う』って、一度松本様と伊藤様にも見て頂いたらどうですか?」

「そう・・・だな。では十津川までの案内つかまつります。松本殿、伊藤殿、道中よろしく頼みます。」

迷っている十郎の背を押すような亥生の言葉に十郎は気持ちを決めた。


「こちらこそ、よろしく頼む。」

「お願い致します。」

「よかったなあ。ほなら、ひとまずまた俺んとこへ来るか、そんで今日はやすんで、明日十津川に向けて発てばええやろ。」

「そうですね、では僕も今日は水郡さんの家にお世話になります。」

「じゃあ、十郎さんの荷の仕度をしておきますね。まだお話があるのでしょう?」

「ああ、すまないね亥生。」

「お詫びの言葉はいりませんよ、十郎さん。私がやってさしあげたくてするんですから。」

「そうだね、ありがとう亥生。」

「いいえ、どういたしまして。」


こうして十郎と三河の志士松本奎堂と伊藤三弥の十津川行きが決まったのである。



③へ続く