水郡家に戻り朝餉をとってから一日、亥生は子守りをすることになった。英太郎はもちろんのこと、近所の子供たちの遊びに付き合い昨夜の悲しみを振り返る暇もないほどであった。

英太郎は遊び疲れたのか、夕餉のあとすぐ眠ってしまった。


亥生が外に出ている間、善之祐らは彼女の今後について話していたので、改めて亥生と話し合うことにした。


「いやぁ、一日息子が世話になったね、ありがとう。」

「いえ、そんな・・・助けて頂いたお礼には到底足りません。むしろ英太郎君や子供たちと楽しませてもらって、気持ちが救われましたから。」

「その事だがね、この先行くあてがなければ、君をウチで雇うことも考えたんだが・・・亥生さんはどうしたい?」

「え・・・?」

「もちろん、君がよければなんだが・・・息子もあんなに懐いているし、乾君が君はよくできたお嬢さんだと言っていてね、人柄も十分信頼できるし、うちとしても助かるだろうから。」

「悪い話では無いと思ってね、水郡さんの所なら安心して薦められるよ。」


十郎が口利きしてくれた事も大きいのか、自分を雇うことに好意的な善之祐に亥生は深く感謝した。

「ありがたいお話で、もったいないです。」

「そんなにかしこまらないでくれ。君の望むような仕事をさせてあげられるか判らないが・・・何かあるかい?」


「・・・私・・・お仕事させていただきたいのはもちろんですけど・・・国学を学びたいです!!」

亥生は善之祐の問いに拳を握り締め、真っ直ぐな目をして答えた。その言葉に善之祐たちは驚いた。

「国学を・・・?」

「どうしてまた?」

「私、何も知らないままでした。旦那さんの考え方も、宿に出入りしてた革新派の人達の考えも・・・上辺だけ知ったかぶって、何も出来なかったし、しようともしませんでした。・・・だから、きちんと今の国を知って正しい事を選べる人間になりたいんです。」


「それは危ない事と解って言ってる?」

「乾君・・・」

亥生の決意を確かめるように十郎は険しい顔で聞いた。

「幕府に反することになれば捕縛されるのは、間近に見て知ったろ?もしもの時は女でもどんな目に遭わされるかわからない。あんなに泣いて辛い想いをしたのに、それなのに・・・」

「だからです。何も知らないまま、国に振り回されるなんてもう嫌です!それに、英太郎君たちと遊んでてずっとこの子らが楽しく笑って誰かに元気や安らぎを与えられてたらいいって・・・そうするには、誰もが正しい道を選べるように学ばなければならないって。女が生意気なことをって・・・わかってます。けど、国を正しい道に向かわせるには男も女も関係ないんじゃありませんか!?」


そう言い切った亥生の目は十郎と初めて出会った時の、ならず者の浪人から店主をかばおうとした時と同じだった。しばらく十郎と亥生は見合ったが、その強い眼差しに先に諦めたのは十郎だった。


「まったく・・・亥生さんが決めたら、聴かないとは思いましたが・・・」


それまで話し合いを見守っていた楠之助が手を叩いて笑った。

「いっやぁー姉さんカッコええわ!面倒見のええ普通の姉さんやくらいに思おうっとたけど、なかなかどうして強おうて逞しい姉さんやなぁ、乾センセが負けよった。」

「こら楠!・・・と言いたいとこだが、スマンな乾君・・・俺も同感や。普段弁の立つ君相手によう言うお嬢さんや。」

親戚同志似た顔で笑う善之祐と楠之助に十郎は苦笑いをした。弟子の一郎についても楠之助の笑いに釣られまいと笑いをこらえていた。


「ええやろ、学ぶことに男も女もない、そんな時勢にだってなるやもしれん。亥生さん、国学は俺も乾君も教えたれるし、そこの二人も頼りないかもしれんが力は貸してくれるやろ。働きながらでも覚えてったらええ。」

善之祐は亥生の希望を受け入れた。しかし、いざ許されると亥生も戸惑うもので心配げな表情で十郎を見た。

「しょうがないですね。」

「ありがとうございます!!」

十郎の常な温和な表情に亥生はぱっと明るくなった。


「よし、ほならウチで仕事も大丈夫か。ちょうど帳簿つけが欲しかったんや。見つからなんだら、楠にでも手伝わせたるつもりやったがなぁ。」

「え゛っ!?」

瞬間、亥生からくぐもった声が聞こえた。

全員に見られて亥生はうつむいて小さな声で言った。


「私・・・帳簿全くわかりません。それにお恥ずかしい話、算盤がこの年になっても扱えないんです。」

「苦手・・・でなくて?」

「はい・・・」

「全く?」

「・・・・はい。」

「みんなにアホアホ言われる俺でも解るで!?」

「・・・・・・。」

「楠っさん、それトドメ。ホンマにアカンのですか?」

「ええ・・・習わなかったのもあるんですけど、宿屋でも帳場の仕事は一度もしませんでしたし・・・少しやり方を教わったりもしましたけど、どうにもわからなくて・・・」


先ほどの威勢の良さが嘘のようにうなだれる亥生に全員が気まずい空気を感じる中、楠之助が名案とばかりに十郎を指した。

「乾センセんとこは?」

「え?」

「僕の?」

「楠っさん、よお考え。師匠んとこかて、医学やら必要や。一朝一夕に身に付けられるもんやないで。」

「でも一郎はん言うてたやん。女の患者さんやと診察しづらい時あるて。この姉さんがおったらそんなん無くなるし、女の患者さんも女のお医者さんがおれば来やすくなるんとちゃうか?」

「一理あるけど・・・どないです師匠?」

「うーん・・・楠之助君の言う通りなんだけど・・・」

楠之助の問いに二人とも言葉を濁した。何といっても亥生は年頃の女性。独り身の十郎の家でもある場所においてやるには、何かと周りがうるさいであろう。


「乾先生、だめですか?私、医術も薬の事もきちんと学びます。ご迷惑でなければおいてやってくれませんか?慣れないうちはお給金もいりません。だから私に居場所を下さい!お願いします!」

亥生は手をついて頭を下げると必死に言った。国学を学びたいというのも本心だろうが、彼女の本当に欲しいものはそれだった。己が心を落ち着かせられる場所、それさえあれば人は苦難とも戦える。

十郎もその思いに気づいてしまったら無下には断れなかった。

「・・・わかりました。ただ国学も医術も教える時は厳しくいきますから、覚悟して下さいね。」

「はい、よろしくお願いします!!・・・水郡さんも、せっかくお仕事の話くださったのに・・・お役に立てずすみません。」


「なに、他にも人は探せるし本当にいざとなれば、楠に小遣い稼ぎでやらせるさ。」

「えー!?甥やからって小遣い程度しかくれはらへんのですかー!?」

「・・・・。冗談や。」

「冗談に聞こえまへんでしたけど!?なんですのん微妙な間は!?」

漫才のような善之祐と楠之助のやりとりに全員が笑った。


亥生も客間に休みに行かせ、楠之助と一郎が帰ると善之祐は十郎に酒をすすめながら訊ねた。

「乾君はホンマにエエんか?楠の奴が変な事言い出したさかい、亥生さんをあずかることになってもうて。」

「ええ、まぁ・・・色々な問題があると僕も解っていたんですが・・・何というか・・・ほおっておけなくて。」

「解る気がするよ。」

「それに・・・また彼女がどこかで一人泣くくらいなら、手の届く所に居てやりたいですし・・・ま、まぁそれよりもあんな意志のある眼をされては断れませんよ。」

善之祐は十郎の言葉に気になるものを感じたが、あえて触れずにおいて亥生の眼差しを振り返った。

「世を変えたら、亥生さんのような心根の強いおなごばかりになるかもしれんな。」

「そうですねぇ。頼もしいもんです。」

「いやいや困るな。俺なんただでさえ女房に敵わんのだ。これ以上女の尻に敷かれる男が増えるんは考えものや・・・。」

「はは、でもそれでうまく家ってまわったりしますからね、案外と女性に力がある国ってのもありかもしれませんよ。」

「どうやろなぁ?ま、先のことはわからんが、亥生さんは君のそばを選んだんだ。大変だろうが助けたれよ?乾君なら心配いらんやろうが・・・あの娘の今の拠り所は君しかおらんのやからな。」

「ええ。そうですね・・・」

明日には亥生を連れて家へ帰る話になっている。

十郎は帰ったらまずは掃除をしなければなと、考えながら注がれた酒を飲み干した。




閑話休題へ続く