こんにちは、果実帽子です。 

 

昔から歴史小説を読むのが好きだったので、中学生のときからNHKの大河ドラマは視てました。

 

今放送しているのが、平安時代の中期を舞台にした「光る君へ」源氏物語の作者とされる紫式部を主人公にした物語です。

 

以下は、ネタバレになるので、それが嫌な方は、こで閲覧を止めて離れて下さい。

 

↓ 

 

長徳の変で左遷された、中の関白家の伊周と隆家ですが、東三条院(一条天皇の国母)の体調回復のための恩赦で帰京が許されました。

 

二人の運命は、同母の兄弟で同じく左遷させられながらまるで異なります。

 

藤原伊周は大宰府(福岡県)に流されたとき、危篤の母の高階貴子を見舞いに密かに京に戻りますが、それが見つかり捕縛され本当に大宰府に送られました。実は伊周は播磨国(兵庫県)に留め置かれており大宰府には行っていなかったのですが、これにより本当に大宰府に送られたのです。

 

藤原隆家は、伊周より先に捕まって出雲国(島根県)に配流されますが、実は但馬国(兵庫県)に留め置かれていました。その間、隆家は京に戻ることはしなかったのです。

 

光る君へのドラマで「恩赦」で帰京を許された藤原隆家が、あっという間に帰京したのを怪訝に思う藤原道綱(道長の異母兄)と藤原顕光、藤原実資がいました。出雲国からこんなに早く戻れるのかと。それは但馬国からの帰京ですから早いわけです。

 

隆家は出雲産の蜆の干物を手土産に、早速宿敵の叔父の道長に挨拶して自分を売り込んでいました。産地偽装の土産なのですが、道長も喜んでいたようです(検非違使から但馬国に居たことは道長は知っていたと思います)

 

伊周も隆家も前の位に復帰しますが、その後の伊周は政治の第一線からは外された形になります。妹の中宮定子の生んだ敦康親王が天皇になれば流れは変わったでしょうが、道長の娘である中宮彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を生んだので、その芽もなくなり公卿らも離れていったようです。

 

伊周はその後、37歳で没しています。

 

姉の皇后定子、兄伊周を亡くし、隆家は中の関白家を一人背負いますが、なかなかどうして兄とは違い隆家は人望があり、叔父の道長とも上手くやっていきます。

 

実直の堅物、藤原実資とも親交があり、頑固で融通のきかないところもありますが、一本筋の通った性格が好まれたようです。

 

光る君へのドラマでは描かれないかもしれませんが、藤原隆家は日本の国にとって大変な侵略を防いだ英雄でもあるのです。

 

大陸から日本への侵略と言うと、鎌倉時代の二度の元寇が有名ですが、それより以前にも異民族からの入寇がありました。

 

九州沿岸部は、異民族の海賊から度々襲撃を受けていたのです。主なものは、新羅の入寇、南蛮の入寇、などがあります。

 

道長が日宋貿易に消極的だったのは、こうした異民族の海賊からの侵略略奪事件が何度かあり、平安京に近い越前や若狭で交易するのは言語道断と考えたのだと思います。

 

その中でも、3000人をほどの異民族の海賊から襲撃を受ける大事件が起こりました。

 

「刀伊の入寇」です。

 

この異民族とは、朝鮮半島の北東の沿海州(現ロシア領)に進出した女真族の海賊の一派とみられています。当時の高麗(朝鮮)も襲われたのです。さらに南下して対馬と壱岐がまず先に襲撃を受けました。高麗人が「東の夷狄(野蛮人)」という意味の「東夷(とい)」を日本語にあてなおしたのが「刀伊」です。女真族は後の大陸の国家である「金」や「清」を建国する民族の系統とも言われます。

 

「刀伊の入寇」はそれまでにない規模の海賊の襲来で、対馬と壱岐は大変な被害に遭いました。略奪、放火、殺戮、拉致です。高麗では刀伊の海賊を撃退し日本人300人ほど解放した記録が残っています。

 

 

 

刀伊の襲来の前に、太宰府の権帥になっていた人物が藤原隆家です。今度は左遷ではなく、眼病の治療のため太宰府に宋から来た眼の名医の噂を聞きつけ、太宰府に赴任することを自ら志願したのでした。

 

実は道長は、隆家が太宰府に赴くことに不同意だったそうです。中の関白家の長となった隆家が九州の豪族の武家集団と結託して、乱を起こされることを警戒していたと言います。

 

確かに、隆家は太宰府権帥に就くと善政を行い、九州の豪族の人心を掌握します。そしてそれは乱ではなく、国家防衛のために大いに役立つのです。

 

 

刀伊の海賊は博多湾まで侵入してきました。隆家は九州武士団の豪族の長らと防衛戦を指揮します。

 

隆家は朝廷にも報告しますが、朝廷の指示など待っていられない状況です。すぐさま防衛戦を開始しました。初日体制が整うまで苦戦した模様ですが、徐々に精兵を集め、戦船を集めて反撃に転じます。

 

 

刀伊との戦いでも神風が吹いたと言われています。猛烈な北風が吹き、刀伊軍が一日襲撃できずにいるうちに、太宰府軍は準備を整えたと言います。

 

太宰府軍の猛烈な反撃に、刀伊軍もついに撤退します。博多湾から撤退しても再度九州沿岸を襲撃しますが、地元の豪族の反撃に遭いついに引き上げて行きました。

 

 

刀伊軍はその後再び対馬を襲撃し、北上して高麗を襲撃しますが、高麗の水軍に駆逐されます。このときに拉致された日本人が解放されました。

 

 

後日談、

太宰府からの報告で刀伊の襲撃を知った朝廷は、すぐさま勅符を出しますが、すでに戦闘は大方終わり、撃退に成功していました。

 

朝廷の公卿の中には、恩賞は勅符により与えるべきで、勅符が発せられる前の戦いは私闘であるので公的な恩賞は出す必要はない。と言う意見が出ます。

 

それに対して、そんなことを言って恩賞を出さなかったら、国家の危機に誰も戦うものはいなくなる、来寇は過去にもあり、これからも起こり得ると意見します。

 

前者は藤原公任と藤原行成、後者は藤原実資です。さすが実務派の実資です。歌や書に優れても世情がわからないと、政治家として失格ですよお二人さん。

 

結局は二人の顔を立てて、本来は勅符の前のことは恩賞にはならないが、今回は特別な事なので恩賞をとらす。と言うことになりました。

 

それにしても、この時太宰府に藤原隆家がいたこと、朝廷には藤原実資がいたのは日本の国にとって大変ラッキーなことだったのです。

 

ではでは。

 

Aiで生成した「東三条院(藤原詮子)」父親の兼家と同タイプの野心家のイメージ。

お気に入りの弟、道長の隆盛は彼女無しでは語れません。

野心家の血が表に出でいたのか、円融天皇からは嫌われましたが、円融天皇の皇子を

生んだのが彼女一人だけだったのは、彼女の運命でした。さささ