こんにちは、果実帽子です。 

 

昔から歴史小説を読むのが好きだったので、中学生のときからNHKの大河ドラマは視てました。

 

今放送しているのが、平安時代の中期を舞台にした「光る君へ」源氏物語の作者とされる紫式部を主人公にした物語です。

 

以下は、ネタバレになるので、それが嫌な方は、こで閲覧を止めて離れて下さい。

 

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 平安時代に藤原氏北家による摂関政治の最盛期を築き上げた藤原道長。

 

光る君へのドラマでは人道を重んじ、私よりも民の生活を重んじる、善良な政治家として描かれています。

 

しかし、実際の道長像は父親の兼家、兄の道隆と同じで、自らの家の繁栄を優先させた、権力型の政治家と言えると思います。

 

長徳の変以降の朝廷内では、左大臣の道長無くして政治は回りません。次々と起こる問題に対処する、これほどの手腕は右大臣の藤原顕光や他の公卿では、とても務まらないのです。天皇も公卿も認める存在です。  

 

激務の道長は体調を壊し何度か辞職を求めますが、あっさり一条天皇に断られます。

 

道長は政務の実権を握った後、家系の繁栄に繋がる地盤固めを行います。

 

摂関政治で大事なのは政治的な手腕だけでなく、天皇の外戚となり権力の中心に座ることです。

 

道長の父親の兼家がそうだったように、娘を入内させ皇子が生まれれると、その皇子が天皇になるように策謀します、外祖父として摂政、関白、内覧などの要職につき政権を得るのです。

 

道長とて例外ではありません。

 

勿論、家の繁栄と権力を得るため、娘を入内させるのは、道長の家系だけではありません。他の上級貴族達もこぞって年頃の娘を入内させます。皇子が生まれれば家系の繁栄に直結するからです。

 

右大臣の藤原顕光も娘の元子(もとこ)を入内させています。藤原顕光の父は、道長の父の兼家の兄である藤原兼通です。

 

かって兼通と兼家は兄弟でありながら骨肉の権力争いを繰り広げました。先に関白に就任したのは兼通で、あからさまな人事で兼家の昇進を止めて他の公卿を昇進させるなどしました。そして重い病に伏した兼通は死に際に弟の兼家を降格させます。よほど嫌いだったのでしょうね。

 

しかし兼家は兼通の死後に右大臣に昇進します。娘の詮子を円融天皇に入内させ、円融天皇の皇子を生んだのが詮子だけだったため、寛和の変で円融天皇の後の花山天皇を退位させて、孫の一条天皇を即位させて摂政となって実権を握ります。

 

まさに王道の摂関政治の典型です。

 

系列からいえば藤原顕光の家は道長の家系より上で藤原氏北家の氏の長を狙える立場の公卿ですが、顕光は長く大臣の位に居座るも主導権は道長に握られ、ナンバー2の座を続けさせられます。藤原顕光は朝廷の大事な式典でやらかすなど、優秀な公卿ではなかったと伝えられますが、結局は天皇の外戚になれなかったからと言えそうです。

 

一条天皇の女御の顕光の娘の藤原元子は想像妊娠の騒動をおこしたりしますが、里に下がった後は内裏には戻らず、一条天皇が亡くなったあと源頼定と密通します。


これを知った藤原顕光は激高し、元子の髪を切り尼にさせようとしたという逸話が残っています。しかし元子は、顕光のもとを逃げて源頼定と駆け落ちして結婚し娘を産んでいます。

 

顕光は次女の藤原延子(のぶこ)を三条天皇の第1皇子の敦明親王の妃にさせることで、ようやく男子の敦貞親王を儲けています。

 

当時は冷泉天皇系と円融天皇系の皇子が交互に帝位についていたため、三条天皇(冷泉系)の東宮は一条天皇(円融系)の第2皇子で道長の孫の敦成親王(後一条天皇)でしたが、敦成親王が帝位ににつけば三条天皇の皇子の敦明親王が東宮となるはずでした。そうなれな顕光の家系にも春が訪れるのです。

 

しかし、敦成親王は素行が悪く貴族らの評判も悪かったので、後一条天皇の東宮となるも、貴族らはなかなか東宮の官職に付きたがりませんでした。しかも父の三条上皇が崩御すると、道長の圧力がますます強くなり、後一条天皇より14歳も年上の東宮なので、次期の帝位につけるのかわからない危うい立場の東宮でした。

 

敦成親王は自ら皇太子の廃位を願い出ます。道長はその決断を尊重して帝位についてないものの「准太上天皇」としての処遇で小一条院の号を贈るよう計らいます。しかも道長は娘の寛子(ひろこ)を妃として敦成親王に輿入れさせます。

 

その結果、顕光の娘の延子と子の敦貞親王は、敦成親王に捨てられてしまいます。そして悲観に暮れるなか延子は亡くってしまいます。それから間もなく顕光も失意のうちに亡くなりますが、亡くなったのちに怨霊として道長の家系に祟りをもたらします。

 

この辺は、ドラマの光る君へで描かれるのでしょうか。

 

蛇足:

ちなみに小一条院(敦成親王)に院司として仕えたのが、若き日の源頼義です。でその長男が源義家で、後の前九年、後三年の役の当事者です(炎立つ)。そして源頼朝にとっては直系の先祖にあたります。 鎌倉の鶴岡八幡神宮が源氏の氏神なのはこの頼義と義家に由来することになります。

 

ではでは。

 

 

Aiで生成した、藤原元子です。

内裏では天皇が渡ってこなければ、男性と恋愛することもできず囲われているだけの死んだも同然の女御の地位ですから、プレーボーイの源頼定と駆け落ちした人生は、ある意味幸せだったのかもしれません。頼定との間に子も授かっていますしね。

 


中宮定子にべったりの一条天皇を、定子から引きはがし他の女御に目を向ける作戦は

結局は上手くいかなかったのです。たたた