マリン老人保健施設に就職が決まり、私は早速チャメさんに一報をいれた。彼はいい思い出がなかったせいもあり、最初はかなり驚いていた。

「マリン老健かあ~。僕にはあまりいい印象はないけれど、でも実際に働くということになればまた違って感じられるかもしれないね。もしかしたらたっちっち君、マキムラのオバさんに好かれるかもしれないしなあ(笑)」

そうことほいでくれたチャメさんの方はというと、まだ就職先は決めていないという。彼も実家近くでない施設、という条件で探しているようだった。

就職先が確定したということで、私は次に引越しを画策することになった。実家から通おうと思えば通える距離ではあったのだが、前述のように家督・家業相続意識が強く自己中な父親と同居したくないという願望と自律(当然自立も)したいという欲求が強すぎたので、「家を出る」という選択をせざるを得なかったのである。父親は当然反対したので、結果として夜逃げのような形で引越しすることになってしまった。また、勤務開始まで1週間程度しかなかったこともあり、物件探しも慌ててやらざるを得なかったが、チャメさんの協力もあり、手頃な値段の良質な物件を契約でき、また引越し作業もスムーズに済んだのだった。

 

勤務初日。さすがに強烈な緊張感でガチガチ状態になりながらも私は、事務所で副施設長であるオオバヤシ氏から労働契約についての説明を受けていた。その顔を見ていて私は驚いた。なぜならこの副施設長、面接の時に特養の施設長と名乗っていた人その人だったからである。

『今月から異動にでもあってこっちに来たのかな?』などと想像をめぐらしつつも、私は先方の説明を聞き続けた。どうも落ち着きのない人のようで、間断なく喋り続けながらも、周りが気になるらしくキョロキョロ視線を泳がしていた。

雇用契約に関して。最初の3ヶ月間は試用期間で、それを無事終えたら次の3ヶ月間は臨時職員として、それも通過した半年目以降からは嘱託職員として働き、そして3年間経ったら再度採用試験を受けて正規登用、ということだった。

賃金のことも説明を受けたが、やはり薄給の代名詞とも言える福祉の仕事ということだけあって高給とは言いがたい内容だった。

その後事務長からユニフォームであるポロシャツと作業ズボンをもらい、着替えた。見た目にはとてもこざっぱりしているとは言い難い、まるで工業製品をつくる工員の作業服のような格好だった。だがまあ仕事なのだから仕方ないか、とその時は特に気にも留めなかった。

次に介護主任であるカトウ氏と会い挨拶を交わした。これまた驚いたことに、この人も面接時に介護主任として対応していた人その人だったのだ(!)。『こんなことあり?』などと思いつつも、新人初日の身、あまり変なことを指摘するのも気が引けたのでまるで初めて会うかのように自然と言葉を交わすのだった。『今は余計なことを考えるのはよそう』と自分に言い聞かせた。

そのカトウ氏からは別室で勤務内容の詳細について説明を受けた。

まずは最初の2週間は日勤(8時半~17時半)で昼間の大雑把な仕事の流れをつかんでもらい、その後の2週間は入浴係をもっぱら経験する。2ヶ月目には早番(6時半~15時半)と遅番(11時~20時)を経験し、そして3ヶ月目に夜勤(16時半~9時半)を、とのこと。そしてそれを無事終えれば試用期間が終わり、完全に独り立ちになるという。独り立ち後は様子を見て、責任番もやってもらう予定である。責任番とはまた後に詳述するが、要はその日の日勤帯の業務リーダーのようなもので、申し送りの受発信をしたり、老健特有の毎日のようにある利用者の入退所を取ったり、またレクリエーションの指揮を執るなど、責任の重い役割のことだ。それを通過すれば、一通りの仕事は経験済みということになる。

「最初は不安かもしれないけれど、心強い先輩たちもいるし、分からなかったら何でも聞いてくれ。でないと、周りも困るし」

その後、カトウ氏に先導され遂に現場へ向かうことになった。

 

マリン老人保健施設は全部で100床のベッド数がある、いわゆる大型に属する施設で、隣接する大病院とは中廊下で繋がる提携関係にある。病院で退院しなければいけないが、故あって(すぐには)自宅に帰れない介護保険対象者(要するに年寄り)が流れてくる、そして施設内で病気等で急変すればそのまま入院ですぐに送還できる、という形になっているというワケだ。

地元自治体が設立したのがオリイ社会福祉法人で、もともとは特養施設と居宅介護事業所、障害者施設だけしか運営していなかったが、時代の要請を受け20年以上前に創設したのがマリン老健だった。

ところで、老健についてご存知ない方のためにざっと説明すると・・・。

1987年に改正老人保健法が施行された時に創設されたのが老健で、もともと要介護状態の老人の社会的入院が問題となり、また患者をベッドや車椅子に縛りつけるなどする「身体拘束」が常態化するに及び、寝たきりの老人を起こし病院から在宅に戻すリハビリの必要性が叫ばれるなか生まれた。当初はリハビリ中心の3ヶ月程度の滞在を予定する医療施設という想定だったが、実際には「特養待機者」など、在宅では看きれない要介護者を長期間預かる介護施設になってしまった。この構造は現在でもほとんど変わっていない。3ヶ月どころか1年以上も滞在し続ける人もザラで、中には一旦「退所」して「短期入所(ショートステイ)」を経て、再び「入所」をする、というサイクル(「長期入所」→「退所」→「短期入所」→「長期入所」・・・・・)を繰り返し、トータルで何年何十年と利用し続ける人もいる、というのが現状である。

最近政府で「在宅強化型」の推奨などと、老健創設当初の初発の動機・目的を実現しようとしているが、現状と乖離していると言わざるを得ない。まあそもそも、創設当初から社会的なニーズに逆行しているのだから無理もないが・・・。在宅介護を推進し、福祉予算を極力削減したいという政府の思惑が透けて見えるようだ。

閑話休題。そんな経緯を経てきた老健はリハビリを中心にすえつつも、食事・排泄・入浴・レク等の介護サービスも提供している。その際は基本的にリハビリを兼ねて、いわゆる残存機能(障害や加齢等で身体機能が低下しても残された「できる」機能のこと。例えば、自分でズボンを履くことはできないが、上着は途中まで着ることができる、など)を活かしてもらい「できない」ところだけを介助するという「自立支援」に準じておこなうようにしている。もちろんこれも建前上は、ではある。この建前と現状の違いについても後に詳述する。

 

カトウ氏に誘導され、私は二階にのぼっていった。上がると、そこは幅の広い長い廊下があり、各所に4人部屋が中心の居室の扉が等間隔に並んでいた。各居室入り口上部には、部屋の名だろう、「チューリップ」「カラクサ」「すみれ」などと、花の名前が記された表札が付いていた。また、壁には利用者が書いたり作ったりしたものだろう、習字や絵画、生け花、切り絵、短歌、などなどが掲示され、殺風景さを減じていた。施設という非世間的な空間に少しでも生活感を出そうという努力が伝わってくるのだった。

すれ違う利用者や職員と挨拶を交わしながら、カトウ氏から私の所属先である南グループに連れていかれた。

マリン老健は、10年ほど前からグループケア体制になっており、重度者の多い一階グループ、二階の比較的介護度の低い人の多い北グループと南グループの三グループに分かれてケアを提供している。そのなかでベッド数36人という南グループに私は配属となったのだった。

南グループに行くと、まず目に飛び込んできたのは少し広い体育館ぐらいの食堂で、そこで何十人もの年寄りたちが大テーブルに各々座りお茶を飲んでいる光景だった。自力で飲んでいる人、職員の介助を受けながら飲む人、お茶が目の前にあるのに手をつけずボーッとヨダレを垂らしている人、などなど。施設というとユニット型のようなこじんまりとした風景しか見ていなかったせいもあり、少し驚いた。しかし、まさにこれぞ施設だな、という感じでもあった。

そんな食堂を一望できる位置にあったのが職員が事務作業をしたりするいわゆる詰め所で、私が訪れた時には何人かの職員がカルテ記入などをしていた。

「ああ、あなたが新人さん!?思ったより若いのね!」

私が挨拶をすると、ニコニコした中年の女性職員がそう言った。何でも、事前情報では私の年齢を30歳ぐらい、と聞いていたらしい。隣にいた私と同じぐらいの歳の体格のいい青年職員がそれまで書いていたカルテを閉じ、棚に戻した。その棚には36冊のカルテ、すなわち36人分の利用者の情報が詰め込まれ、背表紙には利用者の名前が記されており圧倒された。

「今日はグループリーダーが休みだから、どうしていいか分からないから、とりあえず少し介助をしつつも基本は見学ということで」

そう言い残し、カトウ氏は去っていった。一人残された私は所在ない感じになるかと思ったら、おばさんの多い職場ゆえだろう看護婦や女性介護士からプライベートなことまで含め色々と聞かれまくるのだった。

現在時刻は10時半で、もうすぐオムツ交換・トイレ定時誘導が始まるとのことで見学させてもらった。

南グループは軽度者が多いということもあり、オムツ対応の人は少数で、あとはもっぱらトイレで排泄する人が多いとのこと。今回はトイレ介助を体験させてもらった。トイレは食堂近くに二つの共用トイレと、各居室にそれぞれ一個あり、扉はなくカーテンで遮る形になっていた。居室にあるトイレは基本的には自分で歩行し排泄動作をおこなえる、いわゆる「全自立」の利用者がもっぱら利用し、共用トイレは介助の必要な利用者が基本的には利用していた。今回はその共用トイレで介助体験をすることに。

先ほどニコニコと挨拶を返してくれた中年の女性職員、オギリさんに色々と解説を受けながら私はおそるおそる、訓練校で学んだことを思い出しながら、必死に介助をした。手すりにつかまり安定的な立位保持はできるがズボンを下ろせない人、ズボンを下ろせるが立位保持が不安定な人、立位保持とズボン下げができずに職員二人で介助する人など、総勢十数人を小一時間冷や汗流しながら介助するのだった。なかでも体格のいい左半身麻痺の女性利用者の介助は恐怖ものだった。

排泄介助が終わり、次は昼食時間。厨房でつくられた食事が配膳車に入れられて運ばれて来、利用者一人ひとりに合わせて作られた食事が載ったトレーを職員が間違えないように配った。私もいくつか配らせてもらったが、まだ利用者の顔と名前が全然一致していないせいかかなり苦労した。

『まずは顔と名前を一致させるところからだな』

私はそこに一番最初の目標の照準を合わせるのだった。しかし、いかんせん、この目標の達成が一筋縄ではいかなかったのである。