高速神戸駅を出るとすぐ目の前にある「湊川神社」、通称・楠公(なんこう)さん。

潔く戦場に散った熱血武将、楠木正成を祀った神社です。



表門をくぐってすぐ、参道の左手に楠公さんの生涯を紹介した大きな立て看板があるのですが、







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日本史で習いましたでしょ? 1333年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して建武の新政を始めました。

そのとき後醍醐天皇につかえた武将たちを祀った神社が建武中興十五社で、そのうちのひとつがこの湊川神社です。

建武中興十五社は以下のとおり。



建武中興十五社は、明治天皇がつくられたんですよね。

建武の新政(中興)は、後醍醐天皇がそれまでの武家中心の社会を、天皇中心の社会に戻そうとしたものでした。

だから、明治維新によって江戸幕府から実権を取り戻した明治天皇にとって、建武の新政は意義深いものだったんでしょうね。

んなわけで、祀られた楠公さん。

実は、湊川の戦いで一緒に殉節した菊池武吉もご祭神なんです。

後醍醐天皇が実権を取り戻して京都で政治を始めたわけですが、やがて新体制に不満を持つ武士たちが出てきました。

そのひとりが、打倒鎌倉幕府で共に戦った足利尊氏ですね。

尊氏の謀叛によって、各地で戦乱が始まります。

楠木正成は、新田軍、北畠軍とともに南朝側の主力を担ったわけですが、劣勢で絶望的な状況下で尊氏の大軍を迎え撃つことを命ぜられます。

それが、湊川の戦い(1336年)です。

楠木軍はわずか700余騎。4万余りいた主力の新田軍とは分断されてしまいました。

足利方の大軍6千騎を前に、700騎では勝ち目はありません。

もはやこれまでと覚悟した正成は、弟の正季ら一族と「七生滅賊(しちしょうめつぞく)」を誓って自害。

このとき、一緒に自害したのが、菊池武吉なんです。

菊池武吉は、菊池一族12代・武時の息子、13代・武重の弟です。

武重と武吉は新田軍にいたのですが、楠木軍を心配して武吉が派遣されたんですね。

菊池武時は楠木正成をして「忠烈第一」と言わしめた勤皇武将。武吉はその息子です。

正成が自害するに至って、これを見捨てて帰るわけにはいかんと、武吉も共に腹を切ってしまうのです。

なんと愚直な・・・。゚(T^T)゚。

そんなご先祖様をおまいりしたいと願っていたのですが、ようやくお詣りできました。









赤じゅうたんで、超〜大歓迎やないかぁ!o(^▽^)o



と喜んだら、結婚式を執り行っていました。

いずれにしろ、神様、大歓迎のしるしです。ありがたや〜


やんちゃ感ただよう狛犬さんです。^^







本殿ごあいさつを済ませ、楠木正成ら一族の最後の地を見に行きました。本殿の左奥にあります。







しーん。


御墓所にも足を運びました。



幕末の志士たちも多く墓参し、墓前に額づき、報国の至誠を誓ったと書かれています。









墓碑には近寄れないのですが、手前の石板に菊池武吉の名も刻まれているのが見えました。

なんとも言えない切ない気持ちになりながら、おみくじを引きに社務所に行きました。

今年挑戦したいことがあるので、楠公さんにアドバイスをいただきたかったのですね。

でもこの時点では、きびしいアドバイスをいただきました。

要するに、待てということでした。まだ覚悟が足らんやろ、ということだったのでしょう。(;^_^A

3カ月待ったのでね、そろそろ始めますよ、楠公さん、武吉さん。

またご挨拶にうかがいますね。^^




湊川神社(楠公さん)-楠木正成公を祀る神戸の名社