千利休の前身は武士ではないかということで、かつていろいろ調べてみました。

 非常~に長くなってしまうので簡単に書きます。

 堺の町を守るためとし、所蔵していた甲冑が現存しています。

 茶室は敢えて小さい造りになっていますが、密談にはかっこうの造りです。よく利休を呼びよせて茶の湯を嗜んでいますが、茶会とは表向きで軍事的密談のようです。

小田原攻めの際は、わざわざ利休を戦地にまで呼び寄せています。

これは、篭城攻めにあぐねた秀吉が、利休の知恵をかりるために呼び寄せたと推測できます。

 ところで、秀吉ほどの者を指南することができる人物は、竹中半兵衛、明智光秀、黒田官兵衛くらいです。

 半兵衛、光秀亡きあとは官兵衛しかいませんが、秀吉はその知恵に恐れを抱いていたので、心を許すことができる人物ではありません。

 可能性のある人物がすべて消えてしまい、調査はしばらくとん挫してしまいました。


 ここで、二人の肖像画を比較してみましょう。


 利休の生前に描かれた 「千利休図」。

開運的人生に乾杯!-千利休図1



 そして本徳寺に所蔵されている光秀の唯一の肖像画。
開運的人生に乾杯!-明智光秀


  利休と光秀の顔の拡大画像
開運的人生に乾杯!-千利休図2 開運的人生に乾杯!-千利休図2  開運的人生に乾杯!-明智光秀2


 人物鑑定では「耳」が重要な要素ですが、明らかに別人です。

ただ、光秀の肖像画は没後描かれたもので、どこまで正確に描かれているかはなかり疑問です。


 閑話休題。 秀吉を運勢的にみると、1590年に北条氏を滅ぼして天下を統一した翌年から凋落の兆しがみえます。

 1591年は、弟・秀長の死、利休の死、子・鶴松の死が続きます。

利休を喪った前後から、ゆっくりと運が悪い方へ流れているようです。



 とん挫した調査ですが、その後意外なところから情報が入って来ました!

 千利休を流祖とする茶道流派には、表千家、裏千家、武者小路千家の三千家がありますが、裏千家には代々口伝で継承されていることがあるそうです。

それは、千利休は

明智光秀 

その人であるという、一子相伝の伝承です。

 正史では、光秀は山崎の戦いで土民の槍に突かれて死んだとされていますが、生存説が昔からありました。

 どうも秀吉と光秀の間には密約ができていたらしく、戦の勝敗や後の身の処遇などは密約通りに運んだようです。
 
 そうなると歴史上、利休と光秀は同時期に存在していたという矛盾が生じます。

普段は「光秀」で、茶の湯のときは「利休」で活動していたのか・・・

利休は別にいて、後にその名を引き継いだものなのか・・・


 光秀にはその他、有名な天海説もあります。

ここでは割愛しますが、天海と光秀(明智家)にまつわる多数の証拠が残されていることから

光秀=天海 という昔からある根強い都市伝説です。


 実は切腹事件は、何らかの理由で利休を逐電(ちくでん)させるため、秀吉お得意の大芝居だったのかもしれません。
 
 天海が突然歴史に現れるのは、関ヶ原の戦いからです。
天海もまた謎に包まれた人物です。

 個人的には、天海は光秀ではなくて息子か従兄ではないかと思いますが、歴史にはミステリーは尽きないものです。


七福神