真剣に読まないで、今日のは(笑) | 尼崎の矯正しない整体院・かいつう館です(^^)

尼崎の矯正しない整体院・かいつう館です(^^)

1回の時間はかけますが、やることはとことんシンプルに。
笑って良くなる整体院を目指しています。お客さんを通わせない、技術の出し惜しみをしない、楽になってもらいたい、という気持ちを忘れない。そういう思いで、整体をさせていただいています。

どうしたらお客様に早く良くなっていただけるか。
その問いかけは必要ですよね。

そういう意味では、いろんなバリエーションの技術を習得して引き出しをいくつも持っておく、というのは大事なことなんじゃないか、と思います。

でも、いろんなバリエーションのテクニックの整合性がとれていないと、ちょっと浅いテクニックで終わっちゃう気もします。テクニックというか、哲学みたいなものが浅くなる、というか。

つまり、人体とはどういうもので、疾病とはどういうことを言い、それを改善するにはこうするんだ、というものに一貫性がなくなるような感じがするんですよ。

逆に言うと、人体とはこういうもので、痛みとはこういうことで起るので、それを改善するにはこうしたらいい、という筋道があるなら自分の中でいくつものバリエーションは生まれてこないはずなんですね。

人体とは骨格が基礎にあり、それがずれると痛みが生じるので、それを改善するには骨格矯正をすればよい。
という筋道があるなら、「痛みを消すためにAというテクニック(骨格矯正)をするがそれでも痛みが取れなければBというテクニック(骨格矯正以外)も知ってます」というのはアリなんかな?と思っちゃうこともあるんですよ。
それだと痛みは骨格のズレ以外で起ることもある、ということに施術者が気づいていないとおかしいんですよね。

理論と技術が一致していない、というか。
本当は、ね。
医学的に認められていなくても、実際の場で。
「痛みはこういうことで起るので、ここをほら、こうしたら痛みは消えるでしょ?」と見せることができれば。
それは理論と技術が一致している、と言えるんじゃないかと考えるんですよ。
つきつめれば、人体観と疾病観と改善テクニックが一致している。

そこまで整合性がとれれば、ね。
テクニックも深まって、いずれは一つですむんじゃないかなあ、なんて思うわけなんです。
AというテクニックとBというテクニックが必要なんじゃなくて、Aというテクニックだけでいいんだけど、それで解消できなければAというテクニックの中の別バージョンで対応できる、みたいな。

んー、、、一体これは誰に向けて書いているんだろう。
自分でもわかっていません(苦笑)。